東京文学散歩 ――世田谷、千駄木、下北沢


東京に行った際、ひさしぶりに文学少女な気分を思い出し、文学散歩のようなことをしてみました。
メチャ歩いて足は痛くなりましたが、充実したお散歩でした。



***世田谷文学館***

まずはKO線で芦花公園駅へ行き、世田谷文学館へ。芦花公園て聞き慣れぬ地名でしたが、徳富蘆花ゆかりの地なのですねえ。いかにも東京の西の方といった感じの、静かな住宅街でした。
日傘が要るほどの日差しの中、少し歩きます。道沿いの紫陽花がきれいでした。
(余談ですが、井の頭線沿いも紫陽花が見事でした。)




駅から徒歩五分程度。新しい公共施設らしい、小奇麗な外観。文学館などという地味なスポットなのに、けっこう人がいて吃驚。




菖蒲の池には鯉がいました。




常設展は、展示数はさほど多くないですが、萩原葉子の自作猫絵本と石塚公昭人形が展示されていたのがナイス。当たり前だが、東京にはたくさん文士が集まっていたのであるなあ、と思った。
企画展は、茨木のり子展でした。
平日だのに、たくさん人が来ていて驚きました。
晩年は、韓国語の訳業もされていたのですな。知らなかったー。
茨木のり子って、特に好きな詩人というわけではなかったのですが、晩年の詩のコーナー、夫への追憶を書いた詩では胸に迫るものがあり、落涙。ちょっと前なればこうした詩には何も感じなかったであろうに、愛する人の死について考える年齢になったのであろうか。夫の死後の夢日記も展示されていたのですが、それによると毎日のように亡き夫の夢を見ておられ、パートナーを亡くすとはこういうことなのか、と思いました。

物販では、4年前の展示『森鴎外と娘たち』展の図録を買うことができました。
この展示には来られなかったので有難い。
以下、森父娘めぐりがメインとなります。




***森鴎外記念館***

鷗外、と書きたいところであるが、鴎外、で統一します。
さて、今度は西から東へ、千駄木駅で降り、森鴎外記念館へ。

地下鉄を出るとスグ団子坂。坂を上ります。坂の向こうに、雨上がりの雲が見えて良い感じ、な一枚。これが団子坂かー と感慨。




下町でありつつ文化的な匂いを感じるゾーンでありました。千駄木カメ。




青鞜社発祥の地も近くにありました。ふつーの建物になっていました。







森鴎外記念館は、青鞜社発祥の地より少し坂下。見るからに新しい建築でした。この場所は、鴎外邸跡地なのです。記念館としてオープンしたのはわりと最近(2年ほど前?)で、その前は図書館だったとのことでした。




展示は、鴎外の伝記に沿って、写真、原稿、書簡、図書が並べられるという形式。軍医であり文士であったその生涯がよく分かる展示になっていました。常設の展示室は一室のみなので、本格的な鴎外マニアにはもの足りないのかもしれませんが、私のような鴎外ビギナーには有難い展示でした。
その時代ごとの有名な言葉が壁に示されており、「追儺」の「小説といふものは何をどんな風に書いてもよい」という一節に、はっとなったりなど。
最後は、鴎外のデスマスクとともに、新聞の追悼記事が展示されていました。遊学中の息子・娘にはその死を知らせていない旨も記事に書かれており、「ああ、これがあの、茉莉が何度も書いている”棘”の話だ……」 とぐっとなった。
三人の作家が鴎外を語るヴィデオでは、平野啓一郎氏の話が面白かったです。

ちなみに、展示を見ながら、エレカシの「歴史」を思い出してました。
おそらくジャパニーズロックで初めて鴎外を歌った曲では?? てか「口語文」という語が歌詞に使われているのを初めて見た!


そして売店で、『森しげ全集』 を発見……!
しげは、鴎外の後妻(茉莉・類・杏奴の母)です。以前、鴎外全集の付録として掲載されているしげの作品を少し読んで以来、気にはなっており、作品を全部集めた本があればなー と思っていたので、こんな形で編纂されていると知って吃驚。こちらと津和野の鴎外記念館でしか売られていないということでしたのでこれは!ということで購入。
スタッフの方が詳しい方で、その他色々森家おすすめ本を教えてくださいました。



袋もカッコイイ。「moriogai〜」になっている! 最後の「〜」だけはどうもならなんだ模様です。







一階にはカフェがあり、「文人銘菓」というものを食べてみました。単に銀杏型のお菓子だが。美味しかったです。




カフェからは、残存している大銀杏、それから三人冗語の石を見ることができます。
観潮楼の跡地が、裏門になっているのです。







この、今は亡き邸宅の写真を見たとき、別にそれほど鴎外に思い入れがないにもかかわらず(ましてなんのゆかりもないのに)、なぜか「懐かしい」という気持ちが起こり、「これは一体??」 と思い、それで、はっと気づいたのでした。
私が知ってる鴎外は、作家としての鴎外よりも、森茉莉の筆を通してのパッパ・鴎外なのでありますが、茉莉が書くパッパの追憶、ひいては失われた子供時代の追憶は、私の母が語る、母の実家での子供時代に似ているのだ! と気づいたのでした。それで茉莉の文章に惹かれたのかもしれません。
もちろん母の父(私の「おぢい」)は、鴎外のような名士でもなんでもなく、家が裕福なわけでも文学と縁があるわけでもなく、また母には茉莉的なところは一切ないのでありますが、母が、嫁入りとともに断絶されてしまったものとして、しかし心の中の楽園として、失われた宝石のように子供時代を語るその口ぶりと、茉莉が文学の中で再現してみせた宝石のような子供時代の語り方は、よく似ている、というようなまったく私的なことを、観潮楼跡で考えたのでありました。


***お茉莉足跡たどり***

というわけで次は、森娘のほうの足跡を追い、下北沢へ。
日は良い感じに翳りつつあります。
下北沢駅前は工事中でややこしく、うろうろしてしまいました。
駅から南のほうへ。繁華街、サブカルの街 (ロリータ服専門古着屋があって感動……京都ではこういうのは見ない)、そこを抜けると、ちょっと落ちついた雑貨屋とか古着屋があるちょいお洒落ゾーン、更に歩くと、ただの住宅街。
東京は駅ごとにカラーがあり、かつそれがくるくる変わるのがおもしろいのう。

住宅街をひたすら南へ歩きますと、よい感じの遊歩道に出ます。用水路のような細い川が流れ、双子橋と書かれた小さな橋が架かり、ところどころに小さなお店のある、いい感じのゾーン。



はっ!! これがもしや、あの、森茉莉がスゥェタアやカアデガンを流したという川か!!?
セーターを流すにはだいぶ細いので違うかな?とも思いましたが、後で調べたところ、川は後に埋め立てられたらしく、ここで間違いないようです。





川には紫陽花や菖蒲が群棲していて綺麗。時間は4時過ぎ。ちょうど犬さんぽ時間でもあり、川の周囲には可愛い柴や雑種などいぬいぬが出没し、あわわあわわするひとときでもありました。





更にそこからもう少し南へ歩くと、「代沢」という交差点に出ます。下北沢の駅から15分、20分程度ですが、すっかり郊外の雰囲気です。さらに東へ歩き、「代沢四丁目」交差点へ。このあたりに茉莉が住んでいた家がまだ残っているはず。なんか緊張してきた。もはや単なるミーハーなファンである。
町並みは当時とどのくらい変わったのかな、などと考えつつてくてく。







そしてしばらく歩くと、行き当たったのが 「代沢ハウス」




おおー! これがそうか! 壁面に貼られた住所を示すプレートが、ヨーロッパの偉人の家とかに貼られてるアレに見えました。
ここに住んでいたときに、 『甘い蜜の部屋』の後半が書かれているはずです(あまり自室では仕事してなかったようですが)。
苦悩の末に生み出されたというあの大長編。こんなふつーなアパート(失礼)の中に、あの世界が収納されていたんか……と感慨。
ちょこっと覗くと(当然ながら)今もふつーに使われている郵便受けがあり、ふつーに人が住んでおられるのだなあとふしぎな気持ちになりました。居住者募集中の貼り紙もあり。






「代沢ハウス」の前に住んでいたという「創運荘」もそのすぐ西にあります。
今は「創運マンション」と名前が変わり、木造だったという当時から再建されているのですが、あまり雰囲気は変わってないのではないかな、と感じました。





ここでは、少年と男の愛を書いた最初の小説「恋人たちの森」が書かれたはずです。
下北沢を舞台にしたはずのその小説は、しかしいつの間にか外国映画のような、というかこの世界にはないどこかのような、独自の世界を舞台にし始めるのは「甘い蜜の部屋」と同じで、そうかお茉莉の「甘い蜜の部屋」は表面的には父との蜜月の家を意味するのかもしれないが、いやそれは実は「私ひとりの部屋」のことで、そこに映し出される脳内百景、われわれは独居の部屋でも思う存分蜜を分泌できるのだ、それが創造なのや、云々、などなど感慨。
で、この一室で、当時住んでいた茉莉が、「贅沢貧乏」のお城を築き上げていた様子をそっと想像してみたのでした。



来た道を戻り、今度は、茉莉が書斎代わりにしていたという喫茶店・「邪宗門」に行ってみました。私も自宅で作業ができないので、そうしたお店が欲しいものだと思います。



思ったよりもこじんまりとした店内には、いくつもの照明具、いくつもの時計が掛けられ、いくつものキャメラがぶら下げられ、謎の置物もあったりして、それ自体茉莉のごてごてとフラクタルの如く膨張していく文章世界を思わせました。当時からこうだったのかは不明ですが。茉莉だけでなく、店に通っていた地元の作家の本が並べられていました。BGMはずっと演歌でした。



メニューには「モリマリティ」というのもあるのですが、敢えて普通に珈琲を注文。美味しうございました。
ここで少し必要な書き物をしたのですが、昔、森茉莉が書いたお店で、その読者である自分もペンを握っているのや……!とおもうたら、べつに私は物書きでもなんでもないが、なんだか身が引き締まる思いに!
あとで知ったところ、私の座った席の向かいが、森茉莉席だったとのことでした。






ここまで来たらば、代沢ハウスの次に住んだ、そして終焉の地でもある、経堂のフミハウスにも行ってみるべきかと思いましたが、歩き疲れたのと日が暮れてきたので断念。
なお、フミハウスは、事故物件サイト「大島てる」に登録されているのですが、「森鴎外の長女・森茉莉孤独死」 というように書かれており、ああ、ここでも「森鴎外の長女」という肩書きよ……と思うのでした。