対と幻想 : 河野多惠子「草いきれ」など


最近、河野多惠子を読んでいます。
「蟻たかる」「臺に乗る」という短編が特に面白かったので、別ブログに感想を書きました。↓↓


名菓アカデ◎ミズモ
河野多惠子の「蟻たかる」「臺に乗る」が面白かったの巻
第1回 http://acephale.g.hatena.ne.jp/may_ca/20131016
第2回 http://acephale.g.hatena.ne.jp/may_ca/20131020
第3回 http://acephale.g.hatena.ne.jp/may_ca/20131028
第4回 http://acephale.g.hatena.ne.jp/may_ca/20131101


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河野多惠子は、6年ほど前にもじぶんの中でブームがありまして、「幼児狩り」や「不意の声」などを読み、 「すげーーー!」 となりました。女性の性的幻想(だがそれは単純に性的幻想でなく実に複雑な幻想なのです)を描いたそれらの作品は、当時のじぶんのテーマにとっても衝撃のヒットであったのでした。
一方で、ようわからん作品も多々あり、それきりになっていたのでした。
文体や、独特の硬い言葉遣いにとっつきにくかった、ということもあります。
わたしはクセのある文体に惹かれる傾向があるのか、たとえば森茉莉の奔放な文体や深沢七郎のトボケた文体などは、初見で明確に「好き!」と感じたのでありますが。河野多惠子は随筆も読んだがなんだか生真面目、という印象で、途中でやめた記憶があります。その堅実で生真面目な文体と、その作品の内容とが、自分の中でうまく結びつかず、とにかく、なんかよう分からん作家やなあ、という感じでそのときの(自分内)ブームは終わったのでした。


で、思うところあって最近読み返し始めたのですが、今読むと、文体のとっつきにくさは相変わらずながら、すげー!すげー!の連続でありました。
これは、作品中で扱われる、結婚(することやしないこと)や生殖(することやしないこと)といったテーマが、今の自分のテーマにちょうどフィットしたためではないかと思われます。
たとえば生殖のリミットをめぐるテーマといったものは、6年前ではいまいちピンと来なかったのが、今の年齢であればこそ共感と興味を以て読める、ということはありましょう。
そういえば、この作家が 「幼児狩り」 でデビューしたのも、ちょうど今の私の年齢とほぼ同じ、35歳の頃なのでした。
当たり前かもしれませんが、或る程度こちら側の年齢や経験が整わないとピンと来ない読書というのもあるのだなあ…、と思うた次第であります。
(そうすると、批評とは?文学研究とは?どのようにして可能か?? ということも考えられてしまうのでありますがここでは考えない。)



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先日は、「草いきれ」(全集第5巻に収録)という長編を読みました。そしてまた、すげー!すげー! とぼーぜんとしたのでありますが、これなども当時は、ピンと来ない作品でした。
夫婦、あるいは一対の男女というものの関係の、ふしぎさや困難を扱った作品を、河野多惠子は数多く書いており、この作品もそのひとつです。
当時私はそのテーマ自体にきょーみなかったのでしょう。
いや、今もって男女のことはよう分からんのでありますが、しかし昨今、急激に周囲に結婚した友人が増えまして、彼女ら彼らを見ておりますと、結婚制度に懐疑を抱かずに結婚した人はほぼ皆無であり(特に女性側)、皆、幸福そうでありつつも単純に幸福ではない微妙な諸々を抱えながら対を営んでいるのが分かります。また、私自身も依然結婚はしていないながらも、対というものの不可思議さに思いめぐらす機会は稍あり。
という状況下で読みたればこそでしょうか、一見寓話的なこの物語の痛切が、まさに自分や周囲の彼女ら彼らの問題として感ぜられたのでありました。


草いきれ」は、「ルチオとルチア」 と己を名付けたひと組の男女の物語であります。
だが彼等は最初からルチオとルチアであったわけではなく、同棲時代、夫婦時代を経てから、「ルチオとルチア」 と己らを呼ぶ新たな関係になったのです。
それに至るまでの呼称をめぐる葛藤の記述が、以下。




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こうなるまで、彼は一度も彼女の名を呼んだことはなかった。彼女は同棲以前には〈あなた〉と呼ばれていたような記憶があるが、その後はいつも〈おかみさん〉と呼ばれていた。彼は〈きみ〉とか〈お前〉とか言ったこともなかった。(略)喧嘩の際にも、彼女を〈おかみさん〉と呼び、愛撫の場合に口にするのも、やはり〈おかみさん〉であった。
彼は彼女のことを他人に言う時には、〈かみさん〉と呼び変えた。〈女房〉とか〈家内〉とか言うのは、どうしてもそのような種類の称し方をしなければならない相手とか、場合とかだけに限られており、しかも彼はそれを非常に言い難そうに言うのだった。亦の場合、彼は他人に彼女のことを言うのに、彼女の職業名で呼んでいたらしかった。
(略)
彼女のほうでは、彼のことを他人に言うのに、大抵の場合は〈あの人〉と呼んでいた。姓で呼んだり〈彼〉とか〈主人〉とか言ったりするのは、〈あの人〉では通じない場合だけであった。(略)
彼に対しては、彼女は主に〈あなた〉と言っていた。彼女はその呼び方を普遍的な二人称として用いているだけだった。世間の妻によくあるように特定な呼び方として、その二人称を口にするのは躊躇われる。
(pp.218-9)

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いわば、二人称三人称迷子なふたり。
先日、結婚した友人が、「夫婦どう呼ぶか問題」 で迷子ってるのをちょうど目にしたところであったので、おお、この葛藤が既に60年代に書かれていたのであるなあ、と感じ入りました。
呼称問題というのは些末なことであり、時にはカップルの他愛のない戯れのように見えますが、呼称というものが関係性と関わっているからにはそれは関係の本質にかんする問題であり、しかもかつ、社会の中において己等の関係をどう規定しどう声明するかに関わる、厄介な問題でもあります。私たちは、或る既成の名前がついた関係に入るとき、自分たちのオリジナル性をいったん、その手垢のついた呼称の鋳型におさめることになるのですもの。
(「夫婦どう呼ぶか問題」といえば私は、私の母が、私の父に 「家内」 と呼ばれる度にガッカリ感を表明していたのを思い出します。そのたびに母は、「妻、って呼ぶ人が良かったわ」と私にこぼし、この母のドリームを受けて自分は「妻」と呼ぶ男の妻になりたいものだと若い頃の私は思ってきたのでありますが、最近分かったことは、別に配偶者の呼び方にかかわらず偉そうな男は偉そーやとゆーことです。
なお、この「妻」呼び男への憧れは、何か進歩的でインテリ的なものへの憧れでもあり、それは、PCな:政治的に正しい結婚が私たちにはありうるはずという――おそらく80年代-90年代初頭の大衆化しつつあったフェミニズム的なものの空気の中で培われた希望とつながっていたのでしょうが、――といってその空気は大いに意義もあったのでありそれを否定したいわけではない――が、この希望を体現してるかのように自己イメージしてる研究者夫婦など見るとイライラします――おそらく、政治的に正しい結婚などないのであります。)


とはいえ、屈託無く抵抗無く自然にお仕着せの呼称を口にでき、あまつさえそれに幸福を感じることのできるひともやはり存在する中で、愛する相手のたかが呼称の模索にこんなに苦闘せねばならない彼らの不器用。それは勿論彼らの関係性の不器用とつながっており、彼らは結婚時代に、結婚したからといって屈託なく夫らしさ・妻らしさといった鋳型に自らを入れることができず、それがゆえの諍いを繰り返したのでした。


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世間に対して、夫らしく、妻らしく努め合うことの不向きな者同士の結婚生活で、夫らしくすることに疲れた彼が、やはり妻らしくすることに疲れ果てた彼女に苛立ち、彼女の妻らしくなさに一層拘泥ってまた激しい喧嘩が始まると、彼女は怒りや憎しみを投げつける言葉には事欠かなくても、より真実であるところの愛情と嘆きと積った疲れを訴える言葉は亢奮し切った彼女には容易に見つからない。
(p.278)
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そんな結婚生活を経て、ルチアとルチオはこの符丁のような名前で互いを呼び合い、自前の縁起を拵えることとなります。
何故そんな厄介なことをしなくてはならないというのか。既存の関係性の鋳型に自らを溶かし込み、むしろそれに幸福を感じることができる世界もあるらしいというのに。
私は、この関係性の模索の物語が、自分の祖母とほぼ同じ年代の生まれの女性作家によって書かれたと考えると、それだけで胸が熱くなるのであります。


だが、ルチオとルチアの結びつきもまた、ユートピアではありません。


符丁のような名前と自前の縁起に、私は、倉橋由美子のKとLの対を思い出しました。しかし、KとLが、けっして性関係をもつことができずけっして結婚することのない対であり、それゆえにKとLの世界がユートピアの可能性を保っていたのに対し、ルチアとルチオはあくまで社会や「世間」に関わり続け、その中にある対です。
たとえばルチオの同僚は、ルチアとルチオが新たな結びつきに入ったことに対し、こう言います。



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「同棲の相手や妻が仕事をもっていることで、彼は今まで何かと損をしていたわけですよ。しかし、あなたがこれまで通り仕事をもっていても、彼は今度はそれほど損をしなくてすむ。――ま、男って、そんなものですよ。世間というのは、そういうものですよ」
(p.283)
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同僚のこの台詞が示すのは、ルチオとルチアという新しい関係性は、けっして世間から隔絶されたユートピアでなく、世間的な実利をもつものでもあるということです。そしてその実利は、一方の側に、ここではルチオのほうに多くもたらされます。
同僚が言うのは、これまでの結婚生活の中での彼らの妻らしくなさ・夫らしくなさは、男の側であるルチオのほうにより不利に働いており、よって新しい関係となったことで利を得たのはルチオのほうである、ということです。
ルチアとルチオの対には、「世間」や、社会的な男女の非対称がついて回ります。
(ルチアの「妻らしくなさ」には、ルチアが仕事をもつ女であることがかかわっていたらしき点もその非対称をよく表わしています。)



鏡花の 「恰も二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきが如くなりし」(「外科室」)と比するとき、ルチアとルチオというふたりの非ふたり性は、なんとシビアでありましょう。彼らはあくまでも天と地と社会の中のふたりであり、ゆえに、愛を愛で完結できずに勝った負けたをやらずにおれません。(「彼の身勝手さは愛情に潜め得る形のものであり、彼女の身勝手さの形は愛情に潜めおおせないものだったから、愛情の保証をしたから自分の身勝手な主張を通すとなると、当然、彼女のほうが負けたのである」(p.330)――分かる!)


この物語を読みながら私は、寺山修司の 「二人のことば」 を思い出していました。


 
二人のことば 二人の手
二人のモーツァルト 二人の海
二人の歌 二人の夢
二人の故郷 二人の愛

二人ぼっちでいるだけで
しあわせになるあなたと私



「二人の土地 二人の海 二人の子供」 と続く、フェイスブックの幸せ自慢のごときこの詩は、寺山トリビュートアルバムで戸川純が歌っていたことで知ったのですが(もともとはカルメン・マキかな?)、一見甘ったるい愛の歌に見えるのに、何故こんなに哀しいのであろうか? とふしぎに思っていたのでした。
で、ああそうか、ここで歌われている 「二人」の世界は、本当は絶対に存在しないユートピアであるからだ、と気がついたのがやっと最近。
土地も海も子供も、二人だけのものであることはけっしてなく、わたしたちはわたしたちを取り巻く「世間」に常に少しずつ奪われ搾り取られています(そうして最終的には死によって奪われ分かたれます)。二人ぼっちでいるだけでしあわせになるあなたと私、が本当に二人ぼっちでありえるときは、存在しないのでありました。


「誰もいない無人島で、あなたと二人きりで暮らしたい」と寺山が歌うように、ルチアとルチオもしばしば海辺の小屋に足を運びます。まさにこの詩と同じように、ルチアは原始の生活のような生活をそこで夢見ます。しかし、その小屋での生活を自分たちの本当の生活としてルチアが思いたがるのに対し、ルチオは本当の生活をあくまでも都会での生活のほうにおくのです。
ルチオは、ルチオとルチアという新たな関係を築いたことで、より「世間」的にも充実します。一方で、そうでないルチアは、より対に、私生活に、閉じこもる傾向となります。


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ルチアは、「ルチオとルチア」になった時、今後の自分たちはすべてうまくゆくと考えこそしなかったけれど、彼女がどちらも基本的にはそうあり得ると想ったのは、今のルチオのような姿であった。そして、その後の彼女は、ルチオ同様に、自分も亦そうあり得ていると想っていたのだ。が、彼女はいつか、そうあり得ていると思うための意識を要するようになり、今日いよいよ少くとも近頃ではそうあり得ていなかった自分を認めるしかなくなったのである。
彼等が「ルチオとルチア」であるということは、世間との関わりによって意味をもつことなのだ。そして、ルチオはまさしく世間的に「ルチオとルチア」のルチオであった。しかし、ルチアの場合は、私生活的に「ルチオとルチア」のルチアに陥ってしまっていた。
(p.284)
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「ルチオとルチア」という、チルチルとミチルめいたネーミングの寓話性を取り去ってしまえば、ここにあるのは実に見慣れた、「男女あるある」ではないでしょうか。(それが形式上オリジナルな関係性であれ)なんらかの名前のついた関係性に落ち着くことによって、世間的な利を得ていきいきする側と、そのオリジナルさや関係の純粋さにこだわろうとするあまり自壊し厭われる側。
ルチアは、都会での生活と、ルチアとルチオというふたりの生活を意識の上で切り分け、後者を本当の生活と見なすようになりますが、この態度はルチオの不興を買います。この後、ルチアは、この関係に対するその自分の態度、ルチオに対する親密性の誇示の態度をルチオによって批判され、そのふたりの対話が後半の物語の中心となります。
「誰もいない無人島で」 自然に二人であることができ、自然に親密さの幸福に浸かることができるような世界があるとすれば、やはり、ルチアとルチオの関係のなんとシビアなこと。抵抗無しにお仕着せの呼称や関係性を享受することができず自らの関係性に自らで名付け、だがその関係性もやはり社会の中にあってのものでしかなく、けっして完全に二人であることができないという事実に向き合いながら、さらにその中で傷つき傷つけ合う営みのなんといじらしいことであるよ、と私は思わず涙が出た、のでありますが、それにつけても不思議なのは、じゃあ彼らは(わたしたちは)なんでそうまでして 「対」 にこだわってしまうのやろか、ということや。



そう、対であること・対となることの不可思議さ、尊さ、アホらしさ、困難、幸福etc、にはいくらか想像が及ぶようになったわたくしでありますが、そもそもなぜわれわれはそんなに、対であることにこだわりつづけてしまっているのか? という点だけが、今もって分からないのでありました。
そういえばかつて、なんで一夫一婦なんだろうね、と言うたとき、きみは、「再生産を考えたとき、必ず父と母はひとりずつだから、たとえば三人で育てるなんてありえないからじゃないか」 と答えましたね。平素の主張に似つかわしくないと思いつつも一方で、合理的なきみらしい考えであるとも思い、ああ成程と私は納得したのでありましたが、ルチアとルチオ然り、(とりわけ或る時期までの)河野多惠子が書くのは、生殖しない対ばかりなのです。