セレマ





ずっと昔母の友達がちょっと昔てるくはのるが飛び降りたニュータウン団地の前を通って斎場へゆく。
大型店舗ばかりの郊外であるから、古い住宅地にありがちな反対運動も無かったと聞く。
古い下町であるわたしの町内でもかつて、葬祭場建設の反対運動をやった。
だが反対されて追い出されたら死体は何処へ追いやられるんであろう。
車は高架にさしかかる。
高架を走るときいつも世界の向こうにいく感じがする。
東大路九条(でもそういった地名があるのか知らない)が世界の果てだと思っていた幼少期の名残りであろう。
カーステレオでは父の若い頃に流行ったフォークソングを流しており、車が高架にのぼる頃ちょうど、青年が荒野をめざしてた。


  もうすぐ夜明けだ 出発の時がきた
  さらばふるさと 想い出の山よ河よ


父はそう思いながら一度も父の父の家を出なかった。
わたしも一度も父の家を出ていない。
加藤も死んだなあ、と父が言うた。高田渡も死んだし、淺川マキも死んだ。


駐車場に車止めてドアを開けると、馴染みのある声がした。
あ、わざわざ入り口まで、迎えに出てきてくれたんだ、と思ってから、きづいた。
ちがった、そんなはずはなかった。今日は、あの人のお通夜なのだ。


案内された席につく。爪を見ると慌てて除光液で溶かした赤が若干残っている。
葬式に赤は不謹慎だと言われ身支度のとき急いで落とした。
悲しみに暮れてなにもできない筈のときにも、われわれは、悲しいときにふさわしい衣装・ふさわしい化粧を、理性的に選ぶ。久しぶりに履いた黒いストッキングの尻部分が破れて滑稽なことになる。
それはネットで文章を書くときに似ている。
どんなに魂の叫びにみえても、どんなに激情にかられて書いても、そこには、改行タグを入れてみたり文字色指定タグを入れてみたり、理性的で散文的な作業の介入がある。


知った人も少ないし坊主が入ってくるまでの間は手持ち無沙汰だ。
ぼんやり祭壇を眺めるしかない。
やがて坊主が入ってくる。感じのいい坊主である。
大叔母が亡くなったときの坊主は偉そうで感じが悪かった。死者を悼む会のはずが、坊主が威張る会だった。おぢいが死んだときの坊主はいい坊主だった。おぢいの昔の思い出話をぽつりぽつりとしてくれた。
坊主もいろいろだ。
坊主が読経を始める。坊主はだいたい同じ声をしてる。
甲高い声の坊主やハスキー・ヴォイスの坊主は知らない。


前の席に座った二人のおじさんが啜り泣いている。
故人との関係は分からない。二人ともすごい福耳だ。兄弟なのだろう。
祭壇に飾られたミラーボールのようなきらきらや、たくさんのお花を見る。
Aちゃんの家からのお花は、子どもの頃から故人にお世話になっていたAちゃんの名でなくて、先日Aちゃんと結婚したばかりのAちゃんの夫の名で出されており、妻であるAちゃんの名はどこにもない。
親族挨拶のときも、Aちゃんの代わりに、夫が立つ。


死者を悼むのに、形式が要るのは不思議なことだ。意味のわからないその形式に則らなければ正当に悲しんだことにならないのは不思議なことだ。形式に則ることによって、悲しみが公的に登録されるらしい。


祭壇に飾られた写真を観る。みな、写真を観ている。いい写真だ。
写真を観て、本人と語り合っているような気持ちになる。
でも、と気付く。
ほんとうは本人は、写真の中でなく、その下に寝かせられた棺の中にある。
性器と死体はテレヴィに映せないが、わたしたちは今ふつうに、死体を前にしてる。


斎場の若い女の人のアナウンスに従って、各々焼香をする。わたしたちの悲しみ方は、斎場の人のアナウンスに従って進行する。
極度に上がり症なので、焼香の前はいつもひどく緊張する。
よく人前に立つ仕事ができているなあ、とおもう。
わたしは動作が変なので、変なうごきをしてしまわないか、ちゃんと挨拶できるか、など、心配になるのだ。
心配している間、しばらく、死んだ人のことを忘れている。
焼香が上手く済んだので、安心して思わずにっと笑ってしまう。
笑うとき、死んだ人のことを忘れている。
焼香の間中、坊主のお経は続く。焼香にかかる時間に合わせて読経速度を調節しているらしい。坊主は、単なるBGM再生機の役割に甘んじている。誰もおそらく、お経の文句の内容なんか分からない。誰もお経の内容を聞いていない。
坊主の精神力はたいしたものだ。わたしなら、誰も聞いてくれない講義を一時間もやったらへこんでしまう。
焼香を終えて外に出た人たちの話し声がざわざわと高くなり始める。
坊主BGMが終わり、短調のさみしげな曲が流れる。
誰が選曲したか知らないその曲の誘導によって、人々はまた涙させられる。
若い女の人のアナウンスによって、悲しみタイムが打ち切られ、わたしたちは、食事室へ向かう。


食事室の前には、故人の生前の写真が飾られていた。
どれも、旅先や宴会での、たのしそうな、いい写真だった。
だけど、もう、病に蝕まれ始めていた頃だ。


おじさんが父にお酒をついで、
あんなええ嫁を××家にくれておおきに、おおきに、と言って泣いた。
××家にくれて、という昔ながらの表現をした。
おねえさんと一緒に、あの人の顔を見た。
こんなに大きな顔だったかな、と思った。
死んだ人の顔はいつも、異様に大きく見えたり小さく見えたりする。
病気になってからも、いつも元気そうに笑っている顔しか見せなかった彼女の顔は、ついこの間、元気そうな様子で遊びにきたときと、同じそのままの印象だった。
いつもの元気な声が聴こえてきそうだった。
実感が沸かないよねえ、とおねえさんと言い合った。ここに来るとき声が聴こえた気がしてん、と話すと、へえ、そしたら、そのへんに出てきてはったんかもね、とおねえさんが言った。神秘的な話は苦手だが、そうかもねえ、と言い合った。
そこここで、厳粛なムードに疲れた幼児らがばたばた暴れ始めた。
子どもを産んでおくと、こういう場面でなごんでよいのかもしれない。


酒席が苦手な父は早々に席を立った。
帰りの車で、フォークルの続きを聴いた。
いまやお医者様である。
戦争を知らない子どもたちは、或る程度の権力や財力を手にした今でも、己を戦争を知らない子どもたちだと思っているんだろうか、と考えた。父の世代は、その上の世代に強烈な反発を抱いて育った世代であるから。
でも、だとすると、その父の世代に似ているのは、われわれの世代なのかもしれない。
われわれも年をとってもいつまでも、虐げられた若者のつもりでいるのかもしれない。
「これ、Yの結婚式で歌ったんや」と言ったのは、「花嫁」であった。三十年前、「Yの嫁さんは、ちょうどこの歌みたいに、嫁に行ったんや」。


Yの奥さんは、駆け落ちのようにして、S県の田舎町に嫁いだ。
命かけて燃えた、恋が結ばれる、と、夜汽車に乗った先は、因業な姑と何故か結婚後急に保守反動化した夫のイエで、そこは未だ夜明け前の前近代だった。


青春フォーク集に飽きた父は国道沿いのブックオフに寄り250円でポール・アンカのベスト盤を買った。