Paint it black




寝椅子のある部屋の片隅で、ちょうどこの季節、僕たちは書類の隅を黒く塗っていた。
まるで黒胆汁の海に溺れたかのように黒。窓の外は五月の眩しい日差しだのに。
きうきうサインペンを左右に運動させ続ける。隣の犬は忘我の余り口元から涎を垂らしてる。

何のためであるのか分からない、ただそういう儀式なのだ。
書類の隅を黒く塗るんだ、と組織から指令を受信して、その通りに塗り続けるだけ。
その意味は知らない。

ouch! 黒に吸い込まれぼんやりしてたら文字まで塗りつぶしてしまった。
慌てて書類をコピーし直し、同じものをもう一部拵え、ホチキスで止め、もう一度最初から書類の隅を塗りなおす。
いったい何をやっているのだ?
ひたすら、白いところの残らぬように、漆黒の闇になるように、書類の端を塗りつぶしつづける。
まったく不条理な指令によって。
何もかもが完璧なまでに電子化された中で、それだけは奇妙に原始的で家内制手工業的な作業であって、われわれに課せられたこの義務は、そうした原始を残存させておきたいという組織の意志であるのか、あるいは何かのいやがらせなのか。それともおまじないなのか。


寝椅子のある部屋の片隅で、意味の分からない指令によって、永遠に書類の隅を黒く塗る刑に処せられている子羊たちはまるで賽の川原の亡者。
この紙は、きっと、誰だか知らない幾人かの手を経て、長い迷路を越えて、ある組織にたどりつくのだろう。
しかし僕たちは、その組織がどこにあるのだか、いかなる構成員から構成されるのか、知らない。
そこに見えているのにたどりつけないカフカの城のようだ。
城の中では、組織の人間たちが、
「よし、これはなかなかよく塗れている。この塗り方からして、こいつは有能だ」
とか
「こんな黒は久々だ、十年に一度の天才だ!」
とか
「この塗りは粘りがたりない、学問に向いてないな」
だとか
「なんだこの塗りは! こんな黒じゃぜんぜんだめだ! もっともっといい黒でなくては! 来年出直すがいい!」
だとか審査し合っているのだろう。

その城は、きっとこの世の果てにあって、その組織の名を、がくじゅつしんこうかい というらしい。