郵便パイロンと吉野のさくらポスト

今年の春は、長年行きたかった吉野に行けてとてもよかったです。

これは吉野の山中の郵便局で見つけたパイロン。

すごくかわいい!!!
郵便マーク×パイロンって、そういえばありそうでない!
私は郵便マークも好きなのです。


郵便といえば、吉野の駅前の郵便ポストもすごくかわいかったのです。ピンクに桜の模様。このピンク色、とてもきれい。

こちらは赤地に桜模様。こちらもいいなあ。隣には後醍醐天皇陵の碑が!

最近買った素敵な本

最近買った本です!

雑草の図鑑なのですが、雑草の写真が大きく拡大されて写されているのです。どれも道端で出遭う花たちなんだろうけれど、拡大されるとすっかり誰か分からなくて、添えられた引きでの写真を見て「あっ、あなたでしたか」となります。シロツメクサなど、まるでたくさんのお花を集めた花束のようです。

日々、道を歩いてそのへんのお花などを見るのが一番好きなことなのですが、好きなわりに全然花の名前を知らないので買ってみました。これで覚えられるかな?
最近は写真入りの歳時記も買って幸せです。俳句は詠まないけれど、季節の植物を眺めているだけで楽しい。


思えば私の親は両親とも、道端で出遭う草花の名前や野鳥の名前に詳しくて、しょっちゅう「これはコレコレだ」「あの声はナントカという鳥」と言っていました。子どもの頃は興味なくて、彼らが外出中たびたび立ちどまるのをああんもうなんやねんと思っていたものですが、年をとるにつれそうした自然物に私も惹かれるようになって、ふしぎなもんですのう。幸いまだ親も元気であるので、昨今は一緒に散歩してはあれはなんの草かなんの鳥かと小さい子のように問うたりしております。教えてもらってもすぐ忘れるのですが。

最近散歩中に出遭った植物です。

緑に赤の縁取りが綺麗。「アメリカフウロ」かな?

マツバウンラン」?

たぶんよくある花……なんだろう?

続続続続・芥川賞ひとこと感想日記(1979-1970)

芥川賞受賞作を遡って読んでいるひとこと感想の続きです。70年代の分です。

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森禮子『モッキングバードのいる町』(1979年下・第82回)

米国在住日本人妻の話。米谷ふみ子『過越しの祭』(85年受賞作)と同じく自伝的作品なんかな?と思ったが作者の経歴を見る限り違うみたい(作者の姉が国際結婚だったらしいが)。罪や苦悩という後ろ暗いものによって逆に(?)異郷である町に戻るべき場所として結ばれるというところが面白かった。日本人妻たちにそれぞれの事情があったり、白人社会への同化を誇りとする「インディアン」青年/異国の生活習慣に従うほど心が乾いてくると言う主人公が対比的に書かれていたり、人物もその要素も盛りだくさんやのにそれぞれが役割をもってまとまっていてこなれた小説という印象やった。もともと放送作家でシナリオや戯曲を書いてきた人らしい。

 

■ 青野聰『愚者の夜』(1979年上、第81回)

作者はブコウスキーバロウズの翻訳の人。海外帰りの日本人男性とその妻であるオランダ人女性が世界を舞台にして狂騒的な痴話喧嘩を繰り広げる話。突然現れる奇声が印象的。「ウォッおオーン、ウォッおオーン」(女が他の男と関係したことを知った男)、「ウおッ、ウおッ」「ゥおっほっほっほ」(急にはしゃぎだす女)、「ヒィーい、ヒィーい」(またも女の不貞を知った男)、「ぶるるんヴォーイ」(野獣のつもりになった男)。その一方で、普段の二人は文学的な台詞を饒舌に喋る。不能カップルの物語(不能を克服する物語)でもあるのだが、おそらく言葉がその不能と関わっている。「性愛」に失敗したときに女は言う。「言葉にしたからよ。なにもいわずに無言ではじめればよかったのに」。

 

■ 重兼芳子『やまあいの煙』(1979年上、第81回)

表題作はなんかふしぎな作品だった。後半で急に、奇病を発症した青年とその息子に尽くした老婆の母子相姦の話になり、現実みが増し寓話のようになる。表題作の他に収録されている三作品がどれも面白かった。「見えすぎる眼」「白いブラウス」「組み敷いた影」、いずれも戦中~戦後まもなくを舞台として少女の成熟と家族関係を描いたもの。「やまあいの影」で唐突に思えた母子相姦のテーマは、「見えすぎる影」の息子と母の癒着を読むことで、ああ何かこの作者の中で大事なテーマなのかなとわかった。

余談: 以上は私の生まれた年の受賞作。この頃は、選評の文言にも時代を感じる。青野作品の選評では「私の知る限り、いままで日本の小説に、外人がこれほど生臭く描かれたことはない」安岡章太郎)とか「外人の女といういちばんむつかしい題材と取組んでいた」丹羽文雄)とかが評価されていて、1979年ってまだそういう時代やったんか~~と思った。また、選考委員は全員男性であり、女性の選考委員が登場するのは1987年とのこと(河野多恵子、大庭みな子)。

 

■ 高橋揆一郎『伸予』(1978年上、第79回)

50歳手前の女性・伸予が、若かりし女教師時代に思いを寄せた教え子と再び逢う話。教師モノってついつい現代の感覚で読んでしまうので、中学生男子との人目を忍ぶ描写にひやひやした。教え子が女教師に気に入られたせいでいろいろ難儀したことが明かされ、それは世間知らずだった頃の伸予の無防備さを表す描写であるのだが、現代の感覚で読むと単に生徒がかわいそうな話なので「先生~~、そらあかんで」と思ってしもた。それはそれとして、今はもう中年男になってしまった教え子の描写、彼が家を訪れるてくる描写は、湿度と匂いが感じられるかのよう。ラストにびっくり。

余談:現代の感覚との違いということでいえば、内容以上に選評。「読者の共感を得難い老女の恋を描いて、いつのまにか彼女の心情の動きに引きこむのは凡手でありません」中村光夫)、「初老の女をあえて主人公にしたその力業」吉行淳之介)など。五十手前が「老女」でその恋心は「読者の共感を得難い」ものだったのか~~!! おれ、もう老女なんか!! ちなみに作者は初の北海道出身芥川賞受賞者だという。

 

高橋三千綱『九月の空』(1978年上、第79回)

剣道に打ち込む男子高校生・勇の、いつもどこか苛立っているが曲がったところはなく女の子の機微などにはまだ通じない、という主人公像も周囲の人間たちとのやり取りも、ちょっと前の青少年漫画の感じのようで良き。と思っていたら高橋三千綱って漫画の原作もたくさんしているんだなあ。知らなんだ。主人公を取り巻くのは皆どこか哀しく寂しい人たち。中でも「吉田」が気になった。醜い小男でいじめられても怒らないからお坊ちゃんかと思いきや続編で意外な一面も見せるんだけど、吉田のことをもっと知りたい。

余談: これは中学のときに近所のM書店でパラパラ立ち読みして以来。M書店の階段の裏あたりの文庫の棚にあった。M書店は今はもうないが当時しょっちゅう通っていた本屋であり、当時に知った本は未だにタイトルを見るとM書店の書棚の位置が浮かび、内容を読んだものも読んでいないものもすべて、M書店の棚の配置と紐づいて記憶されている。

 

■ 高城修三『榧の木祭り』(1977年下・第78回)

謎めいた言葉(どこの方言をモデルにしてるとかあるんかな?)や断片的な語りが重ねられだんだん祭りの全貌が明らかになるという謎解き的な面白さが主であった。設定自体はよくある陰惨なものかもしれないが、村の人々の巧妙さに対し「ガシン」が正直者であるがゆえに犠牲になってしまうところに、なんか一種の気持ちのよさがある。それにしても、口減らしにしては手が込みすぎでは……?

余談:amazonレビューには「『楢山節考』を思わせる衝撃」とあって、たしかに、土俗の祭り、伝えられる歌、口減らし、と来るとどうしても『楢山節考』が連想されるし私も連想したがよく考えたらべつに似ていない。「いわゆる土俗的な世界を描いた作品はとりあえず『楢山節考』と比較されるの法則」があるように思う。

 

宮本輝『螢川』(1977年下・第78回)

20年以上ぶりの再読! 高校生の頃、文学少女だった同級生が興奮して「宮本輝ってかなりヤバい人やわ」と語っていたのが気になって読んだのだった。よかった、という感想だけ覚えてて内容は忘れてた。彼女はどこに「ヤバさ」を感じたのか、今更ながら聞いてみたい。舞台となる昭和37年は受賞年からは15年ほど前。この頃の昭和30年代観ってどんな感じやったのだろう、もう「レトロ」感があったのかな。母がよく「貧しかったけど良かった時代」として昭和30年代を懐かしげに語るが、本作に描かれる昭和30年代は母の語る昭和30年代とよく似ている。彼ら(母・本作の主人公)の少年少女期と戦後日本の少年少女期が重なっているゆえの抒情なのか。しかしこの抒情は死(鮮烈で突然の関根の死とゆるやかな重竜の死という二つの死)に彩られている。同時収録の「泥の河」も、馬を引く男の衝撃的で生贄的な死から始まるんやった。

 

余談1:「泥の河」は「螢川」以上に再読できてよかった。最近大阪をチャリで周遊できるようになったので、かつてぜんぜんイメージのなかった堂島川土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく」場所もありありと想像できるようになった~~!

余談2: この年の受賞者は二人とも当時30歳。古い山村の習俗を描いた『榧の木祭り』と昭和30年代を舞台とした『螢川』。大江健三郎がこの二作に対して批判的だったようで、「いま現におなじ時代のうちに生きている若い作家が、ここにこのように書かねばならぬという、根本の動機がつたわってこない」としているのが興味深い。それにしても、この時代の選考委員で生きてるのは大江だけだな~と思っていたら、ちょうどこれを読んでいる頃に大江も亡くなってしまった。さすがに淋しい。この頃悪徳商法にひっかかって丸眼鏡を買わされる」という夢を見たのだけど、たぶんそれは大江のメガネだとおもう。

 

池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ』(1977年上・第77回)
筋といえば、浮気を疑う妻が国際電話で嘆きながら男を罵倒し続ける、というだけのものなのだが、それで作品になっている。絵画的・映像的なイメージを喚起する(おそらく作者が芸術家であるがゆえの)文章の豊かさの力なんだろうけれど、もしかしたらパートナーの心変わりを責める者の嘆きというのは、それ自体言語芸術なのかもしれない……とか思った。浄瑠璃とかの語り物っぽい(?)気も。選考委員では吉行淳之介が推していて、やっぱり!と思った。池田満寿夫が亡くなったのってつい最近のような気がしていたら、もうずいぶん前(97年)だったので驚いた。


三田誠広『僕って何』(1977年上・第77回)
これもまたM書店で長年(物理的に)前を通りすぎながらずっと読んでなかったのだが、この機会にやっと読んだ~~!「都市に出てきた男子学生が個性強い女性に出会う」系の作品の系譜だ(『三四郎』系)。食べ物描写が印象的で、これもまたメシマズ文学かも。セクトの人間の分しか用意されておらず食べられなかったコロッケパン。汚らしい中華屋のどろどろした飯(いかにもヌルヌルしてそう)。彼女と故郷の母の手料理を食べるラストは居心地の悪い子宮回帰みたい。そもそも母親が主人公のために無理やり電気釜を買ってやろうとするところから物語が始まるのだった。

余談:三田誠広のサイトを見たら、現役のほめぱげだったのでうれしくなった! ほめぱげよ、永遠なれ!!! 

 
村上龍限りなく透明に近いブルー』(1976年上・第75回)
中学生か高校生ぶりの再読。中高生が「タイトルかっこええ!」と思って手を出す小説の定番だったと思うが今でもそうなのかな? んで何が限りなく透明に近いブルーなんだっけ? といえば、作者と同じ名をもつ主人公「リュウ」がなろうとするところの、世界を反射するだけの硝子を指していたのだね。「僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った」という一節の「優しい」という解釈に宿る哀感と能動に、こんな小説やったんか、と。選評からは珍しく選考委員たちの興奮が伝わってくる。「よく分からんけどすごい才能や!」というのと、若き作者がメディアにセンセーショナルに扱われることの影響を心配するコメントが多かった。

余談:しかし私のファースト龍は『トパーズ』やった。中学生頃。おませさんやったんですね。記憶にあるラスト龍は『ラブ&ポップ』である。当時は「風俗来て説教する男」みたいなやつが金を踏み倒した話をええ話みたいにすな!という感想しか抱けなかったが、これも今読むと印象が変わるかな? それにしても76年前後の芥川賞はスター作家が続々って感じですごい!!

 

中上健次『岬』(1975年下・第74回)

これも再読だが久しぶりに読んだら誰が誰やらすっかり分からなくなっていた。選考委員も口々に「人間関係が複雑をきわめているので、二度読んだ」吉行淳之介「人間関係をのみこむのに、多少難渋した」井上靖「登場人物の親戚、姻戚関係が錯雑していて、それを呑み込むまで骨が折れた」永井龍雄)「人物がゴチャゴチャして」瀧井孝作)と言っており、プロでも同じなんやな~とちょっと笑った。中上論はめっちゃあると思うから今更言うまでもないかもやけど、文体自体はよく読めば淡々としているのにこの激越なエネルギーはなんなんやろか。殺人事件が起こるくだりなど、読んでいて「わっほわっほ!血が流れたぞ!生贄や!」みたいにこちらまで祝祭的に興奮してしまう。その祝祭的野蛮は、秋幸の父の人物像の印象と重なっている。「今読むと和気あいあい大家族の話に見える」というamazonレビューがあってさすがにエエッと思った。人死んでるし!

 

■ 岡松和夫『志賀島』(1975年下・第74回)

堅実な文体。戦争そのものでなくその訓練で傷害を負った友人、戦後の失望の中で自死した母、混乱する街で殺された友人の母。ちょうど最近の受賞作『荒地の家族』で、震災そのもののせいではないはずだがそれとひと連なりであるような喪失が描かれていたののを思い出し、(一応「~関連死」という用語はあるものの)単線的「エビデンス」的な因果関係で語りにくい微妙で入り組んだ形の歴史の因果を描けるのは、小説という媒体の性質だなあ、と思うなど。後半は住職がいい味出してる。「坊主は人を憎むことなど許されん」から天皇アメリカも憎んではいない住職。それだけに責任問題について、「これは天皇さんの心の問題じゃ」と言う言葉が重い。

 

林京子祭りの場』(1975年上・第73回)

芥川賞で初めて原爆を描いた作品だそうだ。選評は、作品に対して肯定的なものもそうでないものも、その素材を評価しているのが興味深い。作品に肯定的なものとしては「私は、この作家の長崎原爆体験のモチーフと、冴えた筆力と、両方を推奨したい」瀧井孝作)。どちらでもないものとしては「このような題材の前には、よく書けているも、書けていないもないと思った」井上靖)、「十四歳の少女だった被爆者が、三十年経って、その体験を小説に結晶させた努力と才能を私は評価したい」大岡昇平)、「なんとしてもこの主題は、激しくわれわれに迫る」永井龍男)。否定的なものとしては「私には、事実としての感動は重く大きかったが、それが文学の感動にはならなかった」安岡章太郎)。

冒頭から、数値がたくさん出てくる。亡くなった人の人数、火の球の直径、閃光の温度、爆心地の風速、など。数値で伝えるしかなくかつ数値では伝えられないことがあることの、パフォーマティブな表現。また紫陽花の色という美しい比喩。経験していない者に伝えるには比喩は有効な手段であるがどこまでいっても比喩でしかなくかつ皮肉な比喩であり、そもそもタイトルが皮肉な比喩だ。

余談:経験した者としていない者の埋めがたい断絶というのは、被爆経験だけでなくトラウマというもの一般にいえることかもしれない。同時収録「曇り日の行進」で描かれる主人公と夫の諍いは、トラウマの当事者とそれを取り巻く人との現場でいつも起こるやりとりであるなあ! と思った。主人公を支えつつも主人公の傷と不安について「君は楽しんでるの」と言ってしまう夫、「あなたも被爆してみるといい」という「私」。「ああ、出来るならそうしたいね」という夫の言葉は単に買い言葉でなく、彼我の断絶自体が罪として感じられるときそう答えるしかないし私もそんなふうに答えてしまったことがあるなあ、とつらい思いになった。

 

日野啓三『あの夕陽』(1974年下・第72回)

古びた木造下宿屋の電球、窓からの光、移り行く午後の陽の色、銭湯帰りの駅前……と陽の移り変わりの描写が印象的な作品。しかしまず、「こんな夫はイヤだ」ポイントばかりに気を取られてしまった! 住む家も単身赴任も勝手に決める、妻の話を聞こうともしない、重い生理痛に苦しむ妻に腹を立てる、洗濯機も掃除機も嫌いだから買わない(ほなお前が家事をやれ)、あげく妻に愛人の写真を見せる……そら離婚するわ!  が、この作品の本題は夫婦関係ではなくて、他の作品も読むと、この作家のテーマが「ここにいなかった可能性もある自分はなぜここにいるのか?」感であるのやなと分かる。それは普遍的なふしぎではあるが、この作品においては(あるいはこの作者においては)「私」の(あるいは作者の)引揚げ体験に由来しているだろう。「私」の故郷は植民者の子として滞在していた微妙な故郷であり、戦後にソウルへ行ってもかつてそこに住んでいたとは公言できない。一方妻は戦後零落したとはいえ東京の派手な家の子で、「私」が妻の思い出話を聞きたがらない理由はそこにあるし、ソウルで出逢った愛人は「私」にとって特別な意味をもつのだろう。


阪田寛夫『土の器』(1974年下・第72回)

自分向きの作品やった! 親族といういろんな歴史や各人の思惑が交錯する場で起こる滑稽が、力の抜けた文体で書かれてるんがよかった。私も親族のことを書くのが好き(っていうかついつい書いてしまう)なので。母の最期とそれをとりまく親族たちのお話なのだが、何かの終末期になってそれまで伏在していたものが堰を切って顕在化するときのドタバタが好きで、その渦中にいつつそれを観察して書くことには、温かさと意地悪さの両方が要ると思う。終盤の、すべてが浄化されるような美しい一幕。多くの読者はここで泣いてしまうと思うが、その後にまだドタバタが続くのがリアルやった!

余談:母の「言葉遣いがおかしく」なって家族にも慇懃な敬語で話始めるところが、うちの母方祖母の晩年とまるで同じでびっくりした! よくある(?)症状だったのか。祖母は普通の京都のおばちゃんの言葉遣いやったのが、急に「~でございますのよ、オホホホ」みたいになったのだった。

 

野呂邦暢『草のつるぎ』(1973年下・第70回)

他の作品を読んだことがないが選評では前の作品と全然違うとか気の利いたものも書けるのに不器用に書いてるとか書かれているので、わざと素朴に書いた作品なのだろうか? 自衛隊の飯の悪口で始まるので、自衛隊という共同体の中での違和を描く作品かなと思いきや、むしろ集団の中の一員になっていくことがテーマ。実際に作者は自衛隊におりその頃の生活を書いたとあとがきで述べている。自衛隊入隊は57年、本作の受賞は73年、その後80年に亡くなっている。水害のエピソードが印象的だった。


■ 森敦『月山』(1973年下・第70回)

文章が綺麗でうっとり。出だしの山々の雄大な描写から、雪に閉ざされた世界が精巧な工作のように美しい文章で作られており円熟の語りという感じ。「たまゆらの」なんていう形容、自分が使いこなせる気がしないなあとか思った。森敦は若い頃横光利一に師事していたそうだ。62歳、最年長の芥川賞受賞者だったらしい(黒田夏子の受賞まで)。

余談:文庫版の解説(小島信夫)ではやはり『楢山節考』と比較されている! いわゆる土俗的な世界を描いた作品はとりあえず『楢山節考』と比較されるの法則」(上述)が発動している?

 


三木卓『砲撃のあとで』(1973年上・第69回)

これはすごく好きな作品。改めて、文章がめちゃ上手い。作家の文章に対してしょうもなくおこがましい感想かもだが……しかし文章の上手さとはなんだろう? 過酷な引き揚げ体験が題材であるが、自分が同じ体験をしてもそれをこのように書けるかといえば書けないだろう。つらい内容なのに読んでいて気持ちいいのは、「なるほど!それをそう表現するか!」みたいな文章の連続であるからで、たとえば、敗戦により自分がその植民地での地位と後ろ盾を失ったことに勘づいた少年は、「自分たちがこの世界の歯車の回転に従って生きる、直接の場に立たされていることを直感した」とあるのだが、この「直接の場」という表現! シンプルなのに思いつかない! 自分もそういうとき(何か危機的なことが今まさに起こっているとき)「ああ、これが~~~これ~~~今~~~マジで!!」という気持ちになるのだが、その「ああ、これが~~(略)!!」をそれ以上言語化できない。また、かつての宗主国の人間が卑屈にふるまうがそれは加害の明確な認識によるものではなく、 「かれらは自分たちが何をして来たのか、そしていまどのような巨大な力がかれらを移動させているのかはよく知らないが、ただ迫り来る危険の可能性については野獣のように敏感だった 」という印象的なくだり。ああ~、それだ~~、野獣の敏感さだよな~~それか~~!となる。「文章が上手い」というのは怖ろしいことだな。

 

余談: 前回は「さよならセンター試験・国語出典読書祭り」(注:参加者一人)のときに読んだ。センター試験で使われた部分に関しては「なんでそこを出すか!?でもまあ、そこしかないか……」と思った。名作であるのに、マーク式の試験で部分的に出遭ったところで大多数の受験生は「今度読んでみよう!」とかならずに悪問や奇問に翻弄されて嫌になるだけだろうから悲しいものだ。問題冊子の表紙にセンター試験(共通テスト)国語が嫌いになっても文学のことは嫌いにならないでください!!」とか書いておいてほしい。

 

■ 山本道子『ベティさんの庭』(1972年下・第68回)

米谷ふみ子『過越しの祭』、森禮子『モッキングバードのいる町』と並んで、芥川賞海外日本人妻話。ベティさんの心境に重ねて描かれるオーストラリアの風景や動物が、熱い土地の描写であるのに寒々。ベティさんは本来「柚子」という名をもつが現地ではベティと呼ばれる。ベティさんをベティさんと呼ぶ日本人男性を「ユウコさんいうてください」「ほれ、よういわんでしょう……ベティさんならおくさんに云えるでしょう、ユウコいうて日本の名前だしたら、おくさん心配しはるわ」とベティさんが責めるくだり、なるほど。ところでベティさんは、四国で育ち立川基地で働いたという経歴だが、京阪の方言ぽいものを喋っている。なんでやろ?

 


■ 郷静子『れくいえむ』(1972年下・第68回)

まさに「水漬く屍、草むす屍」のように、終戦直後に少女はひとりで死にゆく。その様子に始まり回想を挟みその死で終わる。回想の軸になるのは友人との往復ノート。軍国少女の主人公と反戦主義の父をもつ友人は立場は違うが、互いを認め合い友情を育んでいる。空襲の後、これまで自分が賞揚してきたものがなんだったのか、日本人が「支那」で何をしてきたのか、初めて考えが至った少女は友人の言葉を思い出す。歴史に埋もれてしまう戦時下の二人の少女の交友。他にも、娘と月経を心配し合う母や戦後に少女を守ろうとする隣家の主婦など女同士の小さな交流が描かれるのが印象的。少女をとりまくのは女性たちだけではなく青年たちとのほのかな交流も。特に終盤近くで描かれる信州のアカの青年とのやりとりに、そこまで読み進めてきた読者は少女が説得されてくれるよう祈るような気持ちで読むことになるが、このときもう少女の気持ちは決まっている。

 


畑山博『いつか汽笛を鳴らして』(1972年上・第67回)

タイトルから牧歌的な話かと思っていたら全然違った! 口唇口蓋裂(という用語は使われておらず「左側の鼻唇線のあるべき部分が深くえぐりとられている」と表現される)をもつ青年が語り手。彼から見た人物描写は皆唇の形が強調されるのだが、これ、私も私を語り手にして小説を書いたら他人の身長や歯並びの描写をしつこく入れるだろうからよく分かる(己の低身長と歯並びの悪さゆえ他人の身長と歯並びばかり気になるため)。彼と在日朝鮮人の一家との交流がお話の中心だが、その交流には最初から或る暴力を看過した原罪のようなものがつきまとい、遡ればさらに彼が子供時代に行ったことの記憶が横たわっており、その原罪のようなものはさらには日本の加害とつながっている(というかそのものである)だろう。一家の兄から拒絶されるときの、「何か不快なことが起こりかけるときの、あの空洞になった背骨の中を砂粒がこぼれ落ちるような感触」という比喩が秀逸で、またも、なるほど~~あの感覚をそう表現するのか~~! と思った。

 

宮原昭夫『誰かが触った』(1972年上・第67回)
ハンセン氏病(作中では「らい病」とされている)の隔離施設の子どもたちの話。既に治療薬も感染力の弱さも明らかになっているのに偏見は根強く、マイノリティである子どもたちの中に更に在日の子がいたり教師たちの労働問題が絡んだりする。特に今でいう非正規女性の不安定さが書かれている! 「たみお」って生徒がいるのはわざと?(作中人物が北条民雄を語るくだりもある) 選評では「技巧的」という評が多く、私は素朴な印象を受けたので意外であった。子どもたちの会話のユーモラスさやどこかあっけらかんとした世界観を素朴と感じたのだと思うけど、改めて隔離政策の深刻さが言われるようになった今日ゆえ、それらが素朴に見えてしまったということなのやろか。

 

東峰夫『オキナワの少年』(1971年下・第66回)
「~だったよ」「~しているとね、」みたいな軽妙な口語体の語り。しかしこの作品を「読んだ」と言ってええんやろか。というのは、会話文は沖縄の言葉(琉球語というべきか?沖縄方言というべき?)で書かれているから。漢字かな交じりゆえに意味はある程度推測できるが、厳密な意味やニュアンスが分からないので本当にこの作品を味わえているのか分からない。少年の島からの脱出の衝動がやはり軽妙に描かれるけれど、それは実質、土地を取り上げられた沖縄の、米兵相手の「女商売」を営む家からの脱出であることを思えば、それが軽妙な文体や(標準日本語に親しむ者には)分かりにくい言葉で書かれていることはなんだか、「日本人(ヤマト人)」読者への温情のようにも思えてくる。

余談:作者はwikiの略歴を見る限り好きなタイプの人だ。その後のヒット作がないからといってこういう人(生き方が文学みたいな人)を「忘れられた芥川賞作家」みたいに呼ぶのはどうなのかと思ってしまう。表舞台で成功し続けることだけが文学ではないと思いたい。

 

李恢成『砧を打つ女』(1971年下・第66回)
哀切なのにどこかさわやかな文体が心地よくスイスイと読んだ。祖母の「身勢打鈴」によって語られる亡母の人生が、その伝承者となった「僕」=語り手によって日本語書き言葉として語られているわけで、よって本作の語りには、心地よい日本語文体とその源泉でありかつその中の異物のような異言語の部分がある。語りの内容は朝鮮から樺太へ渡った女性の一生であるが、時代や地域を問わず普遍的な母への思慕を描いたものでもある……とまとめてしまいそうになるや、その人生に「盗人の国」たる己の母国が関与していることに私は気づく。 

 

余談:この頃は、ハンセン氏病の子どもたち、沖縄コザの人々、在日朝鮮人の母、など様々なマイノリティを題材にした作品、かつ軽妙な文体でありながらそこから日本や「日本文学」を照射するような作品が連続して受賞しているのだなあ。1971年下半期に同時受賞の二人はそれぞれ、沖縄出身作家と樺太出身作家。受賞作ではないけれど、『いつか汽笛を鳴らして』に収録されている「はにわの子たち」もよかった。重度障害児施設の職員の話だった。畑山博って今はあまり読まれてない作家なのかな? 今広く読まれればどんなふうに語られるかなと思った。wikiによると作者は、その後宮沢賢治研究に従事して「16匹の動物と暮らし」たそうだ(16匹の内訳が知りたいっ)。

 

古井由吉『杳子』(1970年下・第64回)

これもやっと読んだ! 濃密な文体での杳子の様子の描写は昆虫の観察日記のよう。というか観察する・される関係自体がテーマのひとつになっている。いろいろ思ったけれど一番気になるのは、この作品がどれだけ「病気女子萌え」的に受容されてきたのか「病気女子萌え」史にどんな位置を占めるのか、ということかも。細く硬質な杳子の身体像は、かつて自分が憧れた身体像に似ている。若い頃読んだら「杳子になりたい!」と思っていたかもしれない。が、今はそれよりも、杳子の姉の物語を読んでみたいと思った。

 

吉田知子無明長夜』(1970年上・第63回)

これもやっと読んだ~~~!! 吉田知子は一時期周囲でブームになっていて、この機会に読むのを楽しみにしていたのだった。1970年の受賞作なのに古い感じをまったく受けない。収録順に読んでいくとだんだんと作風が変わってゆき、本作は、夢日記のようなシュルレアリスム絵画のような描写が連なる作風。私も夢日記を書くのが好きだがただ夢を書くだけでは作品にはならない。夢のようなものを「作品」にするものは何なのだろう。一読目はとにかく、文章の端正さと表現の巧みさ――「私は自分が手袋を脱ぐときのように、くるりと裏がえしになるのを感じました」とか――に惹かれたけれど、もう一度読みたいな。

 

古山高麗雄『プレオー8の夜明け』(1970年上・第63回)

戦犯としてベトナムで拘留された旧日本兵たちを描く表題作とその前日譚二作が収録されている。少し拘留されるだけと聞いて来てみればいつまで続くか知れない過酷な日々が、軽みとユーモアある文体で書かれる。人権を剥ぎ取られた者らのむきだしの身体的苦痛・不快・飢えと同時に、その中で歌やら演劇やらを作っては披露する面白エピソードも描かれ、知的な人物らしき主人公が周囲の人物を観察するクールな視線が印象的。しかしどうも読んでいてつらいのは、苦痛の描写のせいだけでなく日本兵である主人公=語り手が繰り返し被占領国の人間に我が身を重ねるくだりのせい。われわれは誰もたまたま殺したり生かされたりする宙ぶらりんを生きている、というのが本作に通底するペーソスで、それは分かるけれど~~! でも突然殺された原住民や慰安婦に「私たちも同じであるはずだ」「拉致されて、屈辱的なことをやらされている点では同じだ」とか、占領国の人間が言います……?と思うてしまう。でも、占領国と被占領国の力関係という「構造」を考えるとたしかに気色悪くて正しくないが、文学とは「個」の思いを描くものであるしなあ、とも思い、でも「個」の思いが歴史の中での差異を無化してしまうなら文学とは……?とも思ったり。ちなみに最も共感したのは「キャーラー」(「敬礼」)のところ。正確な発音はどうでもよくて元気な大声を出さないと怒られるの、やはり中学の部活の謎のコールとかを思い出した!

 

 

続続続・芥川賞ひとこと感想日記(1989-1980)

芥川賞受賞作を遡って読んでいるひとこと感想の続きです。80年代の分です。

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2010年代以降:芥川賞ひとこと感想日記(2022-2010) - 京都ぬるぬるブログ2.0 (hatenadiary.jp)

 

80年代は「該当作なし」の回多し。80年上半期、81年下半期、82年上半期、83年上半期、84年上半期、85年上半期。86年に至っては2回とも該当作なし。昨今のように芥川賞が「毎年出るやつ」ではなかったのですね。その後該当作なし回は減って、2011年下半期(第146回)以降は毎回受賞作が出ています。(ちなみに最初の該当作なし回は早くも第2回で、2.26事件のため審査が中止になったらしい。)

また、できるだけ出版された年の単行本の版で読むようにしていて、標準的な厚さのハードカバーが1000円を超えるのはだいたい80年代後半くらいなんやなと分かりました。私が初めてお小遣いで本を買ったのは1990年頃で、その頃は、「薄い文庫は300円まで、ふつうの文庫が400円前後、ハードカバーは1000円から」という認識でした。今もその感覚で薄い文庫を買うと、倍以上、いや3倍くらいするので驚きます。

 

大岡玲『表層生活』(1989年下・第102回)

着飾ったお嬢さんたちがいかにもひと昔前の女性像て感じだった(知的なことに関心はないのに急に鋭いこと言う、みたいな)。秩序と論理=「計算機」/自然と非論理=「女」、って対立で読むとすれば古典的な男性原理vs女性原理の構図で、裸体の女のイメージは『運転士』(92年受賞作)のラストにもちょっと似ている。萌え化させたら綾波レイになりそうな「女」。だが「計算機」にとっての「シミュレーション」や「サブリミナル」は、論理の側に自分を置こうとする試みのようにも、秩序を破ってリアルに近づこうとする実験のようにも読めるなあ。そしてその構図の中で、「神経衰弱」の役割は? 

 

■ 瀧澤美恵子『ネコババのいる町で』(1989年下・第102回)

ひとりの女性の半生記のようなお話で、地味かもしれないがしみじみ良かった。タイトルの「ネコババ」は隣家の人物のあだ名で、タイトルになってるのに別にこの人が重要人物というわけでもない。祖父母の住む地域は、かつて料亭や待合が並んだ地域であるとされ、その背景が詳しく描かれるわけではないのに、かつての人間関係が現在に反映されていることが窺える。

南木佳士『ダイヤモンド・ダスト』(1988年下・第100回)

これは何度か読んだしかつて妹に本をプレゼントしたこともある。「小説を読んだ」という満足感を得られる作品だ。水車の風景描写が最も美しいけれど、それはマイクが直接見た風景ではなく、これからも見ることはない風景を語る想像の言葉なのだ。「とてもいいなぐさめを、ありがとう」の台詞は、最初読んだときには皮肉なものに感じたけれど、その後たびたび思い出して、これしか言えないような場面が人生にはたくさんあるなあと思う台詞である。

 

余談:単行本には他に3作収録されていて、医師が主人公である作品と看護師が主人公である作品が半々ずつ。看護師は、現代医療へのアンチ的な視線を担う。「ダイヤモンド・ダスト」はその医師と看護師の役割分担も調和的で美しい。なお作者は地域医療を行う医師。地方の生活者として地に足をつけようとする中で、「書く、という行為は、内面の浮き揚がろうとする足を大地につけさせるための作業だったのかもしれない」というあとがきの弁も興味深かった。

 

■ 李良枝『由煕』(1988年下・第100回)

在日朝鮮人として日本に生きてきた「由煕」は、韓国に来るも母国を母国であると感じられぬまま日本へ戻る。韓国語に馴染めない彼女は夜ごと日本語を書きつける。一方「由煕」と対照されるのは、語り手の故叔父。日帝時代に抗日意識の強い村で育ち、戦後は日本語を読みこなして仕事をしながらもどうしても日本語を話すことができなかった。「一人は日本がだめ、もう一人は韓国がだめ、それでいて同じ同胞なんだもの」。言語や文字とアイデンティティという普遍的なテーマであると同時に、日本人として本作を読む読者は、彼女らの運命に自国の植民地主義の歴史が関係していることを考えざるをえない(ということを言っていると思われる川村二郎の帯が大変良い)。幻想的な趣は、「由煕」が一度も登場せず語り手を通じてのみ語られるからかな。由煕が語り手の家に残していった文書は、日本語であるため語り手には読めない、ゆえに日本語が読めるはずの読者にも読めない。

 

新井満『尋ね人の時間』(1988年上・第99回)

タイトルも男性の不能(ED)というテーマも興味深く期待して読み始めたがあまり分からなかった……。中年の主人公が謎めいたモデル美女にホテルに誘われるとか女の子に薔薇百本送るとか「安心したまえ、変な場所へ君を連れ込んだりはしない。何でも欲しいと思うものを言ってごらん」とか昔のドラマみたいやなあと思ったことばっかり印象に残ってしまった……。モデルの女は、二度目は主人公がEDと分かっていながら誘ったのに「ひどい……」とかいって呻きだすし、何がしたいんや。そして「妻の新しい彼氏が妻の引っ越しについてきて、いきなり逆立ちを始めて逆立ち健康法を勧めてくる」というシーンにすべて持っていかれてしまった。作者は「千の風になって」の作曲者。

 

余談: 主人公が心理療法を受ける場面がある。長椅子に寝てイメージを思い浮かべてそれを喋る治療法ということになっていて、催眠とか精神分析とかの感じ。取材して書かれたのか想像で書かれたのかは分からないけれど、たしかにちょっと前まで心理療法のイメージって(認知行動療法とかでなくて)こっちだったな~、と思った。そういえば幻想の描写の部分は美しかった。松葉杖って、ダリの絵でも性的不能の隠喩だったっけ。

 

池澤夏樹スティル・ライフ』(1987年下・第98回)

そういえばこれも「横領小説」か! 前も書いたかもだけど、「横領」というテーマがなぜか好きだ。

 

三浦清宏『長男の出家』(1987年下・第98回)

面白かった。何が面白かったかというと上手く言えへんけど、どこかトボけた語り口とか、人の営みのユーモラスさっていうか。息子……いや「良海さん」が得度式の後に家でテレビ観たり「オフコース」聴いたりしてるとことかクスッとなった。和尚は、禅を追求する立派な僧であるかと思いきやどこか胡散臭さも感じられる人物であるが、そのときどきで語り手の前に現れるそうした一面がそのまま描かれている。妻も、子への愛着に執着する愚かな女のようであったかと思えばひどく冷静で割り切った面を見せ、「また間違えたか」と語り手は独白する。

 
余談:三浦清宏さんて、国書刊行会から心霊研究の本を出してはる人やったんや! 知らなんだ。そちらも読みたい。

 

村田喜代子『鍋の中』(1987年上・第97回)

17歳の少女を語り手とする語り口も登場人物らの台詞もちょっと古風で、教科書に載っていたような文体だ~と思って読んでいたら、「じゃ、気が違った子は誰なんだ?」から突然怖くなった。

 

■ 米谷ふみ子『過越しの祭』(1985年下・第94回)

同時収録の前作「遠来の客」と連作で、国際結婚をした米在住の「道子」の話。「道子」の台詞は、モノローグだけでなく英語で話しているはずの台詞も大阪弁で表記される(「道子の英語には大阪弁のアクセントがある」と説明される)。この大阪弁の破壊力が作品のエネルギーになってる。「その包、はよ開けてみて。腐ってますかっ! 腐ってんねんやったら怒ってもええけど、腐ってるかどうかも判らんくせに怒鳴るなんて何やのんっ!」「(そんなもん着てこられるとこっちがはらはらするやないの。ケンが、アイスクリームかマッシュド・ポテトのついた指で触わったらどないしまんねんな。大体、そんなあざらしの赤ん坊を殺したようなもんをよう平気で着れるこっちゃ)」。実際は道子は英語を大阪弁のように自由には操れないはずで、それゆえ夫婦の行き違いが起きたりもする。日本が嫌で出てきたアメリカでも因習のしがらみに出遭い障害児を抱え苦労することになったが、そんな中でも、不条理が嫌で日本を出てきたのだから不条理には屈しない、という内面の自由への意志が大阪弁に籠められてる。他にも「障害者の親」文学として思うところとか異文化の描き方とかいろんな感想はあるけれど、とにかく、大阪弁のパワーが痛快だというのが第一の感想。

 

木崎さと子『青桐』(1984年下・第92回)

現代文の問題に使われそうな文章だ~と感じたのは、キャラクターの対比が分かりやすくて、テーマも明確やから。現代における生と死、医療/自然の対立、といテーマは今ではベタな感じもするけど、「充江」が叔母を医者に見せたいと思うときに「ただ、癌なら癌である、という真実を」知りたい、という心情の描写が面白かった。たしかにわれわれが病院にかかるときの欲求って、単に「治してほしい」だけではなくて「科学の知見によってどういう状態か規定してほしい」というのがあるな~!と気づいた。そして叔母は癌であろうとなかろうと死への心準備ができているので、病名を知る必要はない。

 

高樹のぶ子光抱く友よ』(1983年下・第90回)

簡単に要約すると階層の違う二人の女の子の交流の話。アル中の母をもつ不良少女と、大学教授の娘。現代だったら、このテーマ自体がもっと注目されそうな気がするしシスターフッドの話としても読まれただろうと思うけど、選評ではそういう点には触れられておらず。ラストは「残り頁がこれだけしかない……!なんとかなれ~~!」と祈りながら読んでしまった。

 

■ 笠原淳『杢二の世界』(1983年下・第90回)

「杢二」は実際に存在してたら友達になりたいタイプ。セスナ機をめぐる妄想的な彼の想念に、語り手(兄)はすぐそばまで接近しつつ、「そういう世界もたしかにあるだろうと認めた上で、所詮自分とは無縁のものだという気がした」と切り離すのが、死に向かった人と生きていく人を分かつラインなのか。

 

余談:車谷長吉「鹽壺の匙」と同時に読んでいて、そちらも浮世に馴染めない父の弟が自死してしまう話だった。複数の本を併行して読んでいるとよくこういうことがある。

 

唐十郎『佐川君からの手紙』(1982年下・第88回)

小遣いもろて文庫本とか買い始めた頃、近所の本屋のよく見る棚のいつも目につくところに『佐川君からの手紙』が置いてあって、「これってあの佐川君かな?」と気になりつつ(事件発生時は物心はついていないがあとに母に聴かされた――母にはそういう気持ちの悪い話をよく教えられた)読むタイミングを逸し続けていたので、この機会にやっと。オハラの登場以降は、虚なの実なの、と思いながら読み進めて、オハラがですます調で語り始めて芝居のクライマックスを見せられているような気分になり、「初めて、三者は一堂に会したようなものです」のところでその空間が舞台として見えて、あー演劇を見せる要領で書かれた作品なんか~と分かる。最後に「そうか!」と思い、も一度最初に戻って読まなあかんようになる、という仕掛け。しかし今読むとやはり「被害者のいる事件をこんなふうに扱って大丈夫やったんやろか」ということばかり気になる。海外が今より遠かったからできたのかな。

 

加藤幸子『夢の壁』(1982年下・第88回)

最近読んだ作品の中で、最も読後感が恐ろしい作品やった。しかし、選評では誰もこのラストに言及していない。丸谷才一に至っては「口あたりのいい美談」としている。これが!? 「赤の他人の卒業記念アルバムをくるときのような退屈」とも。こんな卒業アルバムある?? 私が何か読み違えているのやろか? たしかに、佐智と老高の交流は、戦後の日本人と中国人という立場を超えた優しい交流のようには見える。いやしかし……。文庫版のあらすじも「中国人の少年と佐智との無垢な心の交流を描いた」「終戦前後、少女期を北京で過ごした佐智が見たことは、少女の心をひとまわり大きくした」となごく穏当。ネットの感想も探してみたが、ラストに言及している人を見ない。なぜだ。なんか誤読したのか、私だけ違う作品を読んでしもた????

 

吉行理恵『小さな貴婦人』(1981年上・第85回)

猫をめぐる短編の連作。詩人の中年女性は作者自身がモデルなのだろう、美人女優の姉「和沙」が出てきたりする。主人公はその姉に引け目を感じているのだが、そうした端々に現れるこの主人公の卑屈な繊細さ(今の言葉でいうと「HSP」的というか)がよかった。デパートの店員に小声でなんか言われてる気がするとか、悪いデマを流した人に抗議したものの恥をかかせたらあかんと思うて要らんフォローをしてしもてそのことを後で思い出して不安定になって無駄になんか食べて4kg太るとか。そういうちまちましたつらいくだりは全部うんうん!と思いながら読んだ。

5つの連作のラストが表題作で、表題作が最も良かった。電車で読んで泣いて困った。いわゆる感動で泣いたのではなく、動物を最後まで飼い遂げた人が皆経験するであろうあの胸いっぱいの嫌な感じを思い出したのだ。


余談:選考委員に兄・吉行淳之介がいる。妹の作品を読むのってどんな感じなんだろうな~。

 

尾辻克彦『父が消えた』(1980年下・第84回)

尾辻克彦赤瀬川原平としてのトマソンとか路上観察とかをよく読んできた。本作は、墓地へ行くまでの道を「私」と「馬場君」が自由連想のような会話をしながら行く話なのだが、その会話の発想や一つ一つの表現の絶妙さを味わう作品という感じで、そこがトマソン的だった。トマソン的な部分以外では、「目」の描写、見ることをしない「目」の描写が特に印象的だった。

 

 

続続・芥川賞ひとこと感想日記(1999-1990)

芥川賞受賞作を遡って読んでいる感想の続き。90年代の分です。

2000年代:続・芥川賞ひとこと感想日記(2009-2000) - 京都ぬるぬるブログ2.0 (hatenadiary.jp)

2010年代以降:芥川賞ひとこと感想日記(2022-2010) - 京都ぬるぬるブログ2.0 (hatenadiary.jp)

 

 

玄月『蔭の棲みか』(1999年下・第122回)

リンチの場面があからさまに痛そうで凄惨で、それに気を取られる読者――この世界を「異文化」のように思って読んでいた「日本人」読者(私)は、うっかり、最後に登場する日本の警察権力という圧倒的な暴力をスルーしてしまいそうになる、という仕掛け。ソバン爺が、これまでいろんな文学作品で出逢ってきたような、好きなタイプの爺さんやった(私はお爺さん好き)。

余談:一緒に収録されている「おっぱい」もよかった。異なるバックボーンをもつ男女が「いろいろあったけど新しい命を育もうね」的に融和へ向かうオチかな……と思いきや予想外のパンチでラストだった!

 

 

藤野千夜『夏の約束』(1999年下・第122回)

「重いテーマを軽妙な筆致で描いた」みたいな感想がいっぱいありそう、と思って、「重いテーマ」というのはゲイのカップルである主人公らが受ける差別(わかりやすいそれだけでなく今でいう「マイクロアグレッション」のような事象も描かれる)のことだけれど、そうした描写は本来もっと「重く」書かれるはずだという先入観がわれわれにはあって、でもそれが軽妙に描かれているということは、それが彼らの日常の中の当然のひとコマになっていることも示すんやなと思った。いつもガラガラなのでガラガラ寿司と呼ばれている回転寿司屋、とかいうディティールが好きだ。「きょうだい児」(という言葉もこの頃あまり言われてなかったと思うけど)である菊ちゃんが気になった。

余談:この年の受賞作は両作ともマイノリティを中心に据えた作品だ(エスニックマイノリティ、セクシャルマイノリティ)。慎太郎の選評はなんぼ90年代でも時代遅れの言葉遣いであったのでは?と感じるが当時どう受け取られたんだろう。

 

 

平野啓一郎日蝕』(1998年下・第120回)

受賞当時に読んだ。今読んだらもっと分かるかなと思ったが「辞書引く回数がちょっと減った!」というしょぼい成長を感じたのみ。私は「あるある」的理解ができる作品や私小説的作品にテンションが上がりやすく、こうした高踏派的(?)作品は読み方がいまいち分かっていない。舞台やモチーフは幻想文学っぽいのに、幻想文学というジャンルでもなくて、作者の嗜好の表現というのでもなさそうだし、不思議な作品! 「反対物の合一」による世界の変容、「秩序の外の秩序」の存在可能性、というテーマ自体を作者が訴えたかったというより、そういう世界を言語で作れるという認識を作る、みたいな小説なのかな~~? 三田誠広が本作を、「どこがよいのかよくわからないし、何を書いてあるのかもわからないけれども、まったくダメだと決めつけるのも難しい、というような不可解な作品」の系譜と表現していて、そんな正直な表現ありなんや~~! と思った(https://shosetsu-maru.com/rensai/mita-masahiro-64 )。

 

余談: 当時、現役京大生の受賞ということで話題になっており、京大文学部生だった従姉が親戚たちに「法学部の人かてとらはったんやから、あんたも芥川賞とりよし」と言われていた(※うちの親戚はやたらカジュアルに芥川賞を勧めてくる)。当時、平野さんは、「茶髪の京大生」ということでも話題になっていた。今や珍しくもなんともないが、未だ茶髪が不良のものである時代だったのだな~~。うちの学科の先生は茶髪の学生を一律に「ヤンキー」と呼んでいた。

 


花村萬月ゲルマニウムの夜』(1998年上・第119回)

連作三篇を通して、羞恥と色彩と嗅覚の小説。艶やかな純白に網目状の赤を纏った精巣、豚の死体の薄汚い黄色、腐りかけたミルクのような蛆……という色彩描写の一方で、嗅覚は、文章で描写するのが難しいもののひとつだと思う。たまたまこれを読んだ頃「匂い」について考える機会が多く(ゴミ屋敷清掃を手伝うなど)匂いって常に予想を体験が上回るなと思ってたとこだったのだが、本作は、その「匂い」をどれだけ文章で喚起するかという試みのように感じた。豚の糞、鶏の糞、蛆の湧いた動物の死骸の腐敗した匂い、足の指の股にたまった垢の匂い、性器の匂い……そんでそうした身体性や物質性と結びついたものを聖と対置させる、というのはよくあるけれど、本作では、院長との問答の中で、「匂い」は人の脳の高等な部分と関係づけられ神様と関係づけられてもいる!

 

藤沢周ブエノスアイレス午前零時』(1998年上・第119回)

片田舎の雪に埋もれた温泉旅館、そこで行われる中高年たちのダンスの催し、主人公が出遭った耄碌した老女、何が起こるでもないけれど「読ませる」というのがぴったりな文章やった。「胡蝶の夢」みたいな、あったかもしれない人生の複数性みたいな話?

 

目取真俊『水滴』(1997年上・第117回)

沖縄を舞台にした作品。写実と奇想の間の民話のような設定、水を売って儲けようとする「清裕」のようなダメなキャラクターは好き。最後ちょっとドタバタすぎな感じも。本作にも一緒に収録されている「風音」にも戦時の記憶が描かれるが、登場人物たちは、公的な歴史の中では語られないような個人的な分かりにくい後悔に囚われている。

 

辻仁成『海峡の光』(1996年下・第116回)

辻仁成って自分に合わなそうと思ってたら面白かった! 「人間関係あるある」であるところの「主と奴」みたいな話で、好きなテーマ。看守である自分は受刑者を一方的に支配する立場にあるはずなのに、逆に受刑者である「花井」によって見られ支配されているような畏怖。看守としての立場はあくまでも、制度によって隔てられているだけのもので、実際はただの一個の不安定な肉体であることを浮き彫りにする受刑者らの雑魚寝。「花井」は単に軽蔑すべきいじめ加害者なのか崇高な人物なのか分からず、分からないからこそその幻影に囚われ続ける。――これはまさに自分の卓球部体験やなと思って読んだ。というかだいたい何を読んでも卓球部体験を思い出す。卓球部体験ってめっちゃ文学やったんやなあ。

 

柳美里『家族シネマ』(1996年下・第116回)

奇妙な年長の陶芸家の男は、家族という居場所のない主人公の居場所になりえそうで、しかしその場所もやはり違う人に占められている。「千石イエスはいなかった」みたいな話だと思った。犬のくだりつらい。

 

余談: 柳美里は高校生の頃にいくつか読んだ。当時、柳美里の「自殺」』というエッセイを読みかけのままなんとなく部屋に置いていたら、母親に「あんた、あの本はわざと私らに見せるようにあそこに置いてるんか?」と言われ、そんな意図は無かったのであるがそう言われるとそんな意図があった気もしてきて気まずくなった、という思い出がある。今思えば、母はなぜそんなふうに思ったのだろうか。

 

 

川上弘美『蛇を踏む』(1996年上・第115回)

これも受賞当時読んだ。「エッチな小説」という記憶があったが、べつに露骨にエロなシーンはない。高校生(当時)のエロアンテナが過敏すぎたのか、あるいは、作品全体に漂う官能性を正確に感知したのか。ただ、気持ちのよい官能性ではない。母を名乗る蛇と主人公の攻防ともいえない攻防の、「ここで屈してはいけないと思った。思うがかんたんに屈する。屈したいから屈するのだった」とある「屈する」という表現は、人と「肌を合わせる」ときの記述にも用いられている。異種間の交接であり母娘相姦のようでもあるという二重のタブー感で、前エディプス期に強制的に送り返されるような気持ち悪さがある。

 

■ 又吉栄喜『豚の報い』(1995年下・第114回)

何か「天然」という印象を得たのは、登場人物は「トラウマ」と呼びうるであろう傷をもっているが、その語り方が一般的なトラウマ語りっぽくないからか。「豚の報い」という因果論的タイトルに反し、トラウマ的なひとつの因を設定してそれによって果を説明することをしない、登場人物たちが「なんでこうなったか」を語り合う終盤の場面では、「もとをいえば何々がこうしたから」「それはもとをいえば誰々のおかげ」というように次々に因果が連鎖していくんだけど、結局もとの因はなんでもよくて、そもそも最初の豚の闖入がわけがわからないハプニングであるし、その後の報いは全部下痢で流れてしまう。

余談:下痢小説といえば『細雪』(下痢エンド)を思い出すけど、他にも何かあるかな。

 

保坂和志『この人の閾』(1995年上、第113回)

保坂和志って自分にはちょっと理知的すぎて…と思っていたけれど、これは読んでいるうちに面白くなって引き込まれた。筋自体に大きな起伏があるわけでないのにすごい。最初のほうは、主人公と「真紀さん」の微妙な距離に比例してか私もまだ彼らと距離があったのだが、彼らのおしゃべりが弾んでくるとともにこちらも夢中に。人々の話を聴いて「ほう、そういう考え方もあるのか、そういう考え方も可能なんやな」とか思う、対談本を読むときの面白さに似ていた。犬がちゃんと犬らしくかわいい。

 

余談:この年は車谷長吉「漂流物」が候補になりながら受賞を逃している。その後に書かれた「金輪際」の丑の刻参りの場面は(一部で)有名。車谷ファンの間では、「車谷作品は暗い世相に合わないとして保坂の作品が選ばれた」という話として有名だと思うが、これって本当なんかな? 選評を見る限りはそんなことは書かれていないようだけど……。

 

■ 室井光広『おどるでく』(1994年上・第111回)

ずっと気になっていてやっと読んだ! すごくよかった~~~! 自分的には90年代で一作選ぶならコレ!!! しかしよかったが紹介しづらい!!自分も理解できてない! 膨大な知識の裏付けがあるんだろに連想で連なってゆく謎の繰り言は「シニフィアンの上滑り芸」みたいな味わいで、スマッコワラシ(すみっコぐらしぽい)、おいなしっぽ、おんぞこない、と書き言葉になりそこねたようなおどるでくオドラデクの仲間ぽいものたちが続々でてくるのが動物パーティーみたいやし、地方(会津?)の言葉がさまざまな世界の言葉とつながってゆきもしその固有性に断絶されもする。ぜんぜん理解できてないけど、二回目は図を書きながら読んでもうそれだけで楽しかった~~~!! 図の一部をupしときます。

余談: 本作は、芥川賞受賞作であるにもかかわらず文庫化されていない珍しい作品だったが、2023年についに文庫化された!! うわーい!!これで人にすすめやすくなるっっ!

 

笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』(1994年上・第111回)

「海んぬ浴槽なあせびのかたちむは広くつぶらやかなねり具合にあふれさぶりな、ひかり正純……」「白くながめ板晴魔さす流れにらり、少年の乳房、わもはれりよ、マグロへの愁触る……」。この作品と『おどるでく』が同時受賞って、この回はなんなんや! ゾロ目だから?「海芝浦」は秘境駅マニアには有名な実在の駅。

 

奥泉光『石の来歴』(1993年下・第110回)

わけわからんまま投げ出されるような文学作品も好きだけれど、こういう端正に作り込まれた作品も好き。語り物のような文体もどんどん読めてしまう。いくつかの洞窟が登場し、洞窟内の記憶はあいまいなまま封じられていてそのまま抑圧の比喩になっており、いくつもの喪失(主人公はそれを明確に喪失と認識してもない)の後にやっと洞窟の奥へと進むことで、最初の洞窟で戦時中に聴かされた上等兵の言葉が光の中にもたらされる。作中に現れる石の標本や石についての著作は、そのまま文学作品の比喩のよう。途中までは、現実からの逃避として現れるそれは、ラストで現実を止揚する一段深い結晶に。


 吉目木晴彦『寂寥郊野』(1993年上・第109回)

妻のアルツハイマーに心的な原因があるのだと信じようとし、それを取り除こうとする夫の抵抗がリアル。症状を通じて彼女がこれまで移民として生きる中で受けてきたストレスが見える。アルツハイマーそのものはただの脳の過程でも、その表れ方に、その人の過去や実存が関わっている。リチャードがどのように妻の認知症を受容したのかは明確に描かれないが、「ユキエが記憶を失えばその分だけ、私が一人で、他に誰も知る者のない、あるカップルの物語を抱え込むことになる。そして、その物語が本当にあったものかどうか、誰に確かめることもできないのだ」というのは、あらゆるつがいの普遍的な淋しさかも。

余談:アルツハイマーを心因だと思い込もうとするというのは、今だとピンと来ないかもだけれど、認知症への理解が一般的に進んだのって案外最近なのかもしれない。2000年代に「痴呆」から「認知症」に呼び名が変わったので、その頃に諸々整理されたのか。「自閉症」もずっと意味を誤解されたり心因とされたりしていたし。

 

 

多和田葉子犬婿入り』(1992年下・第108回)

既読だが、同時収録の「ペルソナ」と合わせて読むと、異類婚姻譚の形を借りたマージナル・マンの話であるとはっきり分かった。ラストはなんとなくペアができて終わる感じにはなっているけれど、「子のいない女が捨て子を拾って疑似親子ができてめでたし」みたいな感じではなく、みつこの扶希子への接し方のエロティックさも込で不穏。それはそうと「みつこ」は「変人の中年女性」のひとつのモデルになるかも? 私もこうなれる……か?

 

藤原智美『運転士』(1992年上・第107回)

異様に秩序愛の強い青年が主人公。職業選択の基準が「あやふやで余計なものが入りこむ余地があるようなものはリストから排除した」「出退勤を含む仕事のすべてが、時刻によってきちんと設計される」ってのが、私(できるだけすべてがあやふやなほうがいい・毎日時間が規則正しくないほうがいい)と真逆だ! そんな主人公の諸々のこだわりが職業小説の形で書かれるところがまずは面白く、そしてその秩序愛における異物が鞄の中の謎の女性像なのであろうが、それが「秩序/非秩序」「無機/有機」「理性/自然」「男性性/女性性」のような二項対立の後者を担う役割として解説できそうであるのに比べて、突然登場する「ばかでかいコピーマシン」の存在が意味不明で良かった。

 

松村栄子『至高聖所(アバトーン)』(1991年下・第106回)
 センター試験に使われて或る種の者たちをのたうち回らせた「僕はかぐや姫一作で松村栄子は特別な作家だけれど、この作品はずっと未読だったのでこの機会に読めてよかった。叙情と硬質さの合体がその世界の魅力で、本作では硬質さがそのまま「石」のモチーフに込められ。大学が置かれている舞台の描写が作中で一番好きかもしれない。終盤はあまりピンとこなかったが、姉の裏切りと夢の中での赤ん坊としての再生というのは、なじみ深い帰着点である気がする。バナナブレッド的な。
 


辺見庸『自動起床装置』(1991年上・第105回)

宿直者を起こす「起こし屋」のバイトたちの話。挿まれる植物の話がファンタジー的な趣きを醸しつつも、「運転士」同様、プロの仕事を描いた職業小説的な面白さがある。「自動起床装置」は、架空の装置かと思ったらほんまにあって鉄道会社とかで使われていると知り、自分がいかに起床と無縁の生活をしているかを思い知った。


余談: 受賞作をこうして順番に読んでいると、近い時期のものはテーマが似通っていたりふと掠っていたりすることがある。「至高聖所」も後半は眠りの話だったし、「運転士」にも運転手が乗客を起こすことについて書いた部分があった。3回連続で眠り&起こし小説が受賞していることになる? 昔に大学の研究室の先輩が「同期の子たちは毎年、全然違うことをやっていても論文のテーマになんとなく共通性がある」と言っていたけれど、そんな感じなのかな。


 

荻野アンナ『背負い水』(1991年上・第105回)

都会的で知的だが恋愛関係が難儀な女性の自虐風味饒舌体。ちょっと前なら「負け犬」、最近やと「こじらせ女子」の系譜? 父娘小説でもあった。ラスト、男を狙うときの主人公が別の男と同一化しているのが面白かった。

余談:そういえばこの作者のブタグッズコレクションを紹介した本を持っていた。

 

小川洋子『妊娠カレンダー』(1990年下・第104回)

既読。妊娠した姉への妹のひそかな悪意、幸福な日常にひそむ狂気……みたいに語られており、私も前回はそういう作品として読んだが、今回読むと、妹と姉はむしろ共犯なのでないかなと感じた。姉もまた、自分の腹の中で起こっていることを現実感をもって考えられない人であり、胎児の存在を恐れる女性である。この姉妹は、現実感のなさや生殖への悪意で結びつく、そういう絆の同志なのでないか。

生殖こじらせ小説といえば河野多惠子を思い出す。河野の「解かれるとき」という小説は「自分が障害のある子を産む」という空想を経て初めて生殖を受容できる女性の物語であり、本作の「破壊された染色体」 ――身内に染色体に欠損がある者をもつ身としては結末を平静に受け入れられなかったということを選者の一人(三浦哲郎)が書いており、同様のひっかかりは私にもあったのであるが―― ももしかすると、そうした、現実感に接続しようとするツールとしての空想的欠損なのやろか。

 

余談:主人公がホイップクリームの試食販売」をする場面があり、私もまさにホイップクリームの試食販売をしていたので、「あるある」と思うて読んだ。この場面では、この小説もやはり「フード嫌悪小説」だなあということが分かる。地上の食べ物はすべて毒入りだ、というあの感じを思い出す。

余談2:レビュー見てたら「友達に薦められて妊娠中に読みました」というのがあった……! そいつはほんまに友達なのか。 なんで薦めたんや。

 

 

辻原登『村の名前』(1990年上・第103回)

中国のある村を訪れた日本人商社マンの実録とも幻想ともつかぬ世界。一行についてくる謎の凸凹コンビだけがアニメチックというかカフカに出てきそう。中国人たちは内面が伺い知れず、犬料理に象徴されるその風習は野蛮であると同時にそれを食べるとこちらまで変質してしまう力をもつ。今だと中国の村を舞台にこんなふうに書くのは難しそう。ポリティカル・コレクトネス的にというわけでなく、中国がずいぶん「現実」のものになったし奥地の村でもインターネットで検索するとふつうに観光サイトが出てきてしまうし……と思ったけれど、今でも別に京都を魔界として描く作品とかたくさんあるんだった。

 

 

April(ただの日記)

たまにはただの日記を載せてみます。

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4月5日(金)

新年度連続遠方での仕事が一段落して、テレワーク。夜はお客さんが泊まりにくるので家を掃除した。数えてみれば、彼女は我が家開闢以来10人目の宿泊人である。10人のうち複数名がリピーターなので、まあ宿屋としてそう悪くもないんだろうと理解している。実家は、人が訪ねて来づらい家だった。父方のいとこの家は、週末ごとにいとこたちの恋人たちが遊びに来て皆でわいわい夕飯を食べるというので羨ましかったものだ。それにひきかえ我が家は、友人も来づらいのだから恋人を呼ぶなど考えられなかったし人を泊めるなど至難であった。自分はろくな大人になったとは言い難いが、かつての実家と違って立派な(?)宿屋になれたのはよかった。

 

4月6日(土)

お客さん(Aちゃん)を案内しあちこち行った。桜は満開だった。Aちゃんは50回転ズファンで、PVに出てくる場所やゆかりの店めぐりに付き合った。地元にいると逆に行かない新世界で、スマートボールなどできて楽しかった。観光客はみな愉快そうだった。CLUB WATER が西成に移転していた。あいりん地区の近く。この一帯は「こわい」街として「異界」的に語られることも多い。そら様々な事情ある人が集まってきた街であるからよそもんには分からんことも多かろうと思うが、殊更に異界性をキャッキャと言い立てるのはなんかなあと思ってて、そうしていろんな人が生活を営んできた街の歴史をふつうに知りたい。Aちゃん希望の店は山王にありおでんが旨かった。山王といえばずっと「てんのじ村」が気になっていたことを思い出した。難波利三『てんのじ村』を読もうかな。それにしてもどこにいてもハルカスがみえてこわい。最後は山王から日本橋まで歩いて立ち飲み屋を二軒はしご、流石に足が終わった。

 

4月7日(日)

昨夜は体力が無くて聴けなかった、the Birthday の『April』を朝から聴いた。チバの遺作、ということになる。「遺作」と言われても、って感じだ。未だ実感がないなあ。聴き終えて、Aちゃんは涙ぐんでいた。Aちゃんはまだ20代だがミッシェルをよく聴いていたそうだ。「サイダー」はBirthdayの曲の中で好きなタイプの曲。「I saw the light」は「light」の「L」でまたも巻き舌ぽくなっていて、「最後までLが巻き舌やったな」と言い合った。それでええねん、チバはそういうとこがええねん、と力説。夕、駅までAちゃんを見送る。また歩きすぎた。

 

4月8日(月)

週末はずっと晴れていたが雨。歩きすぎて疲れていた。年をとるとすぐ疲れる……と同年代が言い始めたが、昔からけっこうすぐ疲れていたのであまり変化が分からない。ネットを見る。共同親権導入が通りそうで不気味。

 

4月9日(火)

実家へ。実家の猫にマタタビを与えた。夜、亀川千代さんの訃報を聴く。ゆらゆら帝国は一度ライブに行っただけのライトファンだったが、好きで、ずっとゆら帝ばかり聴いていた時期があったし、ちよー!と目をハートにする(表現が古い)あね(実の姉ではない)を微笑ましく眺めていたのもつい昨日のことのようだ。馴染みのあるスターがひとりずついなくなっていく、というのはもっと先の日のことだと思っていた。いや、でも、いくつになってもそう感じるのかもしれない。そして、音楽を通じてしか知らない人というのはいなくなってもいなくなった気がしない。作品は残るので。twitterでたねさまが Apple Music のリンクを貼っていた。「ボーンズ」。どんな歌詞だったか思い出して、ああそうだよな、と思った。その人の作品によりその人の不在が慰められる、というパターンだ。「骨になってもハートは残るぜ」のときもそうだったな。(どちらも骨だ。)

 

4月10日(水)

用事があり久しぶりに母校へ。学食に新入生の列ができており、案内のスタッフさんが「ケバブならすぐできます!」と叫んでいた。構内も学生でごった返していて馴染みある四月の光景だったが、昔と違うのは、演説をする学生を職員らしき人が監視していたこと。上からの指示なのだろうが奇怪に感じた。職員さんもそんなことをしたい人ばかりではないだろうに……。昼から仕事。新しい案件が二件あったがなんとか。行き帰りで京都の桜が見られてよかった。帰ってから、ゆらゆら帝国『ミーのカー』を聴いた。ゆら帝は、出てきたときから風格があって完成されていて、同時代のバンドなのにずっと昔の人のように感じたな、と思い出した。歌詞にも幼稚なところが一片もなかった。

 

4月11日(木)

母がやってきた。7年ぶりだ。家の荒れぶりを怒られる覚悟をしていたが大丈夫だった。大阪の名所に桜を見に案内した。気に入ったようでよかった。一緒に歩いていて、ずいぶん歩くのがゆっくりになったなーと思った。こんなふうにまだ一緒に出かけられるだけで有難いことだが。サトザクラはほぼ満開で、ソメイヨシノは散り始める頃で、両者の競演を見ることができた。枝を見上げながら母は何度も「死ぬときはこんなんを見上げながら死ぬわー」と言った。季節遅れの西行だ。帰るときにちょうど風が吹いて桜吹雪が起こった。母は夕食は帰って食べるのかと思っていたが、こちらでひとりで食べていくという。私は夕から仕事なので夕食前に別れた。夜までいられると知っていれば仕事のスケジュールを調整したのに。けどまあ母もひとりでプラプラする時間もええもんなんかも。夜にLINEが来て、「残りの人生分の桜を観たように思う」とあった。また観ましょう、と返事をした。

 

4月12日(金)

冬の間に太ってしまったことは認識していたので、頑なに体重計に乗ることを避けていたが、ついに思い切って体重計に乗った。去年の夏に2kgほど減ったのを年末まで維持できていたのだが、完全にもとに戻っていたことが分かった。ダイエットを再開することとした。

 

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もとかれ

誰と誰がLOVEやらFOREVERやら大親友やらいう落書きがあまた刻まれた橋の欄干に気になる落書きがありました。

「しゅうさんは私のもとかれ これ実話」

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現在進行形の絆ばかりが彫られた中でただひとり、過去の関係を刻んでいるこの落書き主は、どんな気持ちでこれを書いたのか。

「これ実話」という打ち明け話風味の書き方をみると「しゅうさん」は有名人か何かなのでしょうか。しゅうさんと別れてしまったのは最近のことなのか昔のことなのか、どの程度の関係であったのか。切実な思いで刻んだのか、それとも特に意味ない軽いいたずら書きなのか。ともあれ、人と人の関係って解消されると最初から何もなかったかのように何もなくなってしまうものであるから、そういうものを何らかの形で刻んでおきたい、ってのは落書きの本質であるのかもしれません。

 

こっちはなんかホッとする落書き。日本狂走連盟。

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